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東海近辺のライフログ。
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kamipro.comの『韓流MMAニュース』でも書きましたが、メールでリクエストもあったので、『DEEP 42 IMPACT』でベルナール・アッカに勝利したRYOの『MFIGHT』でのコラムを紹介したいと思います。コラムの内容は本人の半生を振り返る内容になっていますが、それ以外にもZERO1のエース格に成長した弟・崔領二とのこと、同じ在日韓国人である秋山成勲に対しての思いなど、興味深い部分もあります。

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記1』“韓国と日本? それでもオレはオレ”

オレの名前はチェ・ヨン(日本でのリングネームはRYO)だ。日本の名前は崔領(さい・りょう)。日本で生まれ、日本で育った。いわゆる在日韓国人3世、“ザイニチ”だ。韓国の慶北霊泉出身の祖父が日本の九州大分に渡り、我家の日本生活は始まった。

知っている人はわかるだろうが、オレの職業は総合格闘技家である。時々バイトで土方をしたりもするが、それはあくまでも副業であって、自分の生活で最も重要な職業は格闘家である。2006年まで韓国のスピリットMCで活動し、2007年からは日本に帰って選手生活を続けている。

何日かのあいだに、この許されたこの空間を通して、在日韓国人として自分の思いや自分の生い立ち、そして韓国と日本について話してみようと思う。この文がおもしろく読める読者は奇人中の奇人だろう。

オレは1978年、日本の大阪で生まれた。下には弟と妹が一人ずついる。弟はあの有名な! プロレスラーの崔領二だ。もちろん知らない人も多いだろうが、日本では少し有名な人物だ。

日本に住む同胞は、大きく民団(在日本大韓民国民団)系列と朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)系列に分かれている。もちろんこの区分に大きな意味があるのではない。皆さんがよく知っている在日同胞の格闘家、朴光哲や金泰泳は朝鮮総連系列の学校を卒業した。

だが、オレは日本の学校で日本の教育を受けて育った。100%純粋なオリジナルの韓国の血が流れるオレが、日本の学校で日本式の教育を受けて育った理由は「祖国を捨てて日本人になるため」ではなく、単に「学校が家から近いから」だった。

オレが通っていた学校には一学年に在日同胞が二、三人はいた。もちろん多くの日本人の中にあって自分が在日であることを隠したがる場合もあるが、韓国名を日本式に変えて生活をしても、その臭いはどこかに出る。金本、国本、金山といった姓はほとんど在日同胞のそれだった。

オレの場合「高山領」という日本名を使っていた。だが、ある時から“崔領”という名前に変えた。崔領はオレの韓国名、チェ・ヨンをそのまま日本語で読んだものだ。

名前を変えた理由は父によるものだった。父は時々おかしな(?)本を読んでいたが、その影響を受けやすい。その日も一人で本を読んでいて、突然オレを呼ぶと「領は今日から韓国人の誇りを持たなければならない」と言って、大真面目に「おまえはこれから高山ではなく“崔領”だ」と言ってオレの名前を変えた。

その言葉を聞いた時、オレはとくに悩むこともなく、そのまま「はい」と答えてしまった。日本の学校で日本の教育を受けていたが、当時のオレは「オレはオレ」と思うだけで、毎朝太極旗(韓国国旗)を眺めて涙を流したりすることなどなかった。いまでもそれは同じだが、当時のオレは“祖国”や“民族”、“在日”という言葉より、“女子生徒”や“友人”という言葉のほうにもっと興味があった時期だった。

多くの人は、やはりオレがいじめられたと思うかもしれない。もちろん酷い時にはそういうケースもあるが、オレはそうではなかった。日本の友だちとよく一緒になって勉強したり、遊んだりした。

もちろん、多くの在日韓国人の子どもたちは日本人の中にいると多少萎縮する傾向もあるが、オレは自分をカッコいいと思った。なぜか? だってオレは彼らとは違うから。担任の先生も差別や人権について勉強された方で、クラスの友だちに「領を差別したら承知しないぞ」と言ってくれた。そして「差別はバカなことだ」と強調した。

もちろん、若干のいたずら混じりの冷やかしはあった。オレの名前である崔は日本語ではサイを意味する。それで何人かの子はオレの鼻を指さして、「おまえにはどうして角がない?」とからかったりもした。これがギャグコンサート(韓国の人気番組)なら、たった一週間でクビになるレベルの冗談で、結局これはただの冗談で終わった。そんないたずらのために、オレが友人とケンカすることはなかった。当時、オレはかなり外向的な子だった。いまでも自分はバカだが、その時もバカに近かった。いまよりもう少しおしゃべりでうるさいバカだった。

当時、我家は大阪で商売がうまくいく焼き肉屋を経営していた。商売人の家でオレと弟たちは、みな平凡に育った。在日韓国人・朝鮮人が出てくる映画のように「民族の自尊心」のために同級生とケンカをしたり、アイデンティティの混乱を経て「親父! オレはなんで韓国人なんかに生まれたんだ」と反抗することは絶対になかった。

オレは本能的に強い人に弱く、弱い人に強いので、ケンカはほとんどせずに育った。もちろん高校の時、ケンカが強ければ女子生徒にもてる場合もあった。オレも一時は「どうしたらもてるのか?」と悩み、ジェルを塗ったり香水をつけてみたが、効果はほとんどなかった。

※※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記2』 

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RYOの半生を綴った手記、第二編です。

※※※※※※
以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記2』“バスケットボールと柔道、秋山成勲とオレの違い”

2007年10月、韓国で『HERO’S』が開催された。その時オレはオープニングファイトに出場して外岡真徳という正道会館の選手と闘った。(後日、この選手は秋山成勲とも試合をして負ける)。そしてこの大会メインイベントは秋山成勲とデニス・カーンの試合だった。

オレは1ラウンドの序盤、KOで外岡選手に勝った。気持ちのいい勝利だった。そして秋山もデニス・カーンを1ラウンドでKOした。この日、たくさんの試合が行なわれたが、話題の中心は断然、秋山成勲であった。

試合後、知人がやってきて「おまえも秋山と同じ大阪出身の在日韓国人なのに、なんでこんなに影響力が違うんだ?」と言ったかと思えば、別の知人は「それは高校の時、向こうは柔道をしてて、おまえはバスケットボールをしてたからだろ?」と言った。

そう、秋山が柔道をしている頃、オレはバスケットボールをしていた。“民族”や“大韓民国”、“在日韓国人・朝鮮”といった言葉に、これと言って関心のなかったオレは高校2年の時からバスケットボールを始めた。ポジションはセンターでレギュラーだった。時々「ダンクシュートできる?」と聞く人がいるので、この場で明かすがダンクシュートはもちろんできる。もっともバスケットボールの球ではなく、テニスボールでの話だが……。

自分の高校が県内で3位に入れば全国大会に出ることができた。だが、オレたちの学校は地区予選ベスト8で3点差で負けて全国大会出場は叶わなかった。全国大会出場の夢が潰えた日、漫画『スラムダンク』の連載も終わった。自分より背が低い相手に、二回連続で蝿叩きブロックに遭ったような悲しい日だった。

高校卒業後、バスケットボールを続けるつもりもあったが、結局バスケットで大学進学はできなかった。オレの通っていた学校が全国大会に出られなかった影響もあったし、バスケットで大学に行くなら入試にも受からなければならなかったが、点数も足りなかった。オレは勉強ができなかったのでなく、しなかったのだ。それはある種の“拒絶反応”のようなものだった。

高校を卒業した後、周りの誰かが「韓国に行ってみたらどうか?」と言った。オレは深く考えることもなく「語学研修にでも行くか」という感じで韓国行きの飛行機に乗った。そしてやはり、深く考えることもなく韓国語を勉強するために語学堂に通い、深く考えることもなく、韓国の大学に進学しようと思った。

オレは語学堂に通って韓国外国語大学の日本語科に入学した。とくにしたいこともなかったが、「同時通訳者は金になる」という話を聞いて入学したのだった。だが当時のオレの韓国語の能力は、それこそどん底だった。語学堂で日本から来た友人と一緒に遊んでいたので、韓国語はうまくならなかった。むしろ韓国にきてもっと日本語がうまくなったような感じだった。

このあと、何度となく玄海灘を行き来しながら紆余曲折を経て、6年もかかって大学を卒業した。勉強するのに忙しいはずなのに、何度も玄海灘を渡った理由は、単にお金がなくなったからだった。そういう時は、日本に帰って土方のバイトをして金を稼ぎ、また韓国に戻ってくる、ということを繰り返した。

■格闘技を始める

多くの選手は女にもてようとして格闘技を始めるケースが多いというが、オレはそれに該当しなかった。23歳になった時、弟に“総合格闘技”というものを紹介されたのだ。弟は「本当におもしろいスポーツだぞ」と言いながら、オレに「格闘技をやってみたらどうだ?」と言った。

ここで弟について説明をしておかなければならない。オレの弟は知っている人はわかるだろうが、日本ではファンからバイクをプレゼントされるほど、けっこう有名なプロレスラーの崔領二だ。

プロレスに入門した動機も突拍子もないものだった。幼い頃、領二がイギリスに留学に行って学校が休みの時、オランダに行き格闘技を習ったことがある。そのジムの主が『UFC1』に出場したジェラルド・ゴルドーだった。そこで格闘技を習った弟はジェラルド・ゴルドーが日本でプロレスの試合をするので、セコンドとして一緒に付いて行った。事件はここで起こった。

弟の整った顔立ちと長身が当時のプロレス団体の関係者の目に止まったのだ。ある関係者は弟に「プロレスをやってみるつもりはないか?」と尋ねたが、このとき領二は「ない」とハッキリ断った。

その後、弟は再びセコンドとして日本に訪れたが、以前に断ったはずのプロレス関係者がまた近づいてきた。すでに断っていたので、その関係者は「プロレスはしなくてもいい。紹介したい人がいるから、ちょっと一緒に会ってみないか?」と言って彼を安心させた。それほど変な話でもなかったので、領二もとりあえずついて行った。

だが運命はここで変わってしまう。弟が会った人物とは、日本の伝説的なプロレスラーで、ZERO1の創立者・故橋本真也さんだった。橋本さんは弟を見てすぐに「君が今回入団することになった崔領二くんか? まあ、頑張ってね」と言ったのだ。こうして領二はいつの間にかプロレスを始めることになった。

一方、オレはオレで韓国でキックボクサーとして活動していたリ・ヨンチョル(※訳者注:長谷川永哲。格闘技通信でも韓国格闘技コラムを執筆していた。ハイパー・キック・リーのリングネームも使う)さんと語学堂で出会い、格闘技というものを本格的に始めていた。この時、韓国には総合格闘技という概念すらなく、K-1も有名ではなかった。オレは日本でも格闘技ジムに入会し、3ヵ月練習しただけでアマチュア修斗の大会に出場した。運よく西日本トーナメントの新人戦で優勝することができた。当時の階級はライトヘビー級だった。しかし、まだプロでやるつもりはなかった。

「優勝したんだから才能はあるのかな?」と思いはしたが、最終的に自分に才能はないという結論を下し、ただひたすら練習をした。だが打撃の練習はまったくやらなかった。誰かの顔を殴ったり、殴られたりするのがきらいだったし、関心もなかった。

それからまた日本でアルバイトをして過ごしていた時、日本の格闘技雑誌に紹介されたスピリットMCの記事を見つけた。イ・ミョンジュという選手が第1回大会で優勝をする姿を見た。彼のヘアースタイルを見て「こんなファッションの選手が韓国ではスターになれるの?」と思った。オレも決して外見はよくないが、韓国でならスターになれるんじゃないかと思った。

オレはまた飛行機に乗って韓国に戻っていた。
 
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『RYOのイカサマ師日記3』

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記3』“オレの勝負論、相手の長所を殺せ”

韓国で出場した2004年の『スピリットMCインターリーグ』でキム・ドンヒョン(現UFCファイター)、木村仁要、キム・チュンヒョンに勝利して優勝した。こうしてオレの韓国での格闘家活動は始まった。

韓国に来てからスピリットMCでたくさんの試合をした。『GO! スーパーコリアン』(スピリットMCのリアリティショー)に出演して若干の人気も得た。当時、オレは自分がチャンピオンにならないとダメだという考えにとらわれていた。おかしな話だが、オレが優勝しないと韓国の総合格闘技は発展できないと考えていたのだ。

当時は大きな目標よりも、いかにすればよりおもしろい試合ができるかが重要だと思っていた。にもかかわらず、戦略は自分が相手の長所を殺すことだった。勝負論的に見れば、これは正しいことだが、いま考えると極めてアマチュアの考え方だ。プロなら観衆の視線を意識し、おもしろい試合をしなければならないのは当然のことなのに。

だが、2005年ミドル級の決勝トーナメントでイム・ジェソクのパンチを食らって初の失神KO負けを喫した。それまでのオレの打撃はゴミのようなものだったが、それでも一度もKOで負けたことはなかった。この試合以後、オレはトータルファイターになる必要性を感じ、打撃を本格的にトレーニングするようになる。このときの結果は負けだったが、韓国総合格闘技の発展には少なからず貢献できたと思う。

それから真剣に打撃のトレーニングに打ち込み、2006年4月22日のマイク・アイナとの試合では成長した自分の姿を見せることができた。いま考えればやはり物足りなくはあるが、以前のゴミのようなレベルの打撃をある程度克服した姿を見せられた。そしてその年の10月、アメリカン・トップチームのスティーブ・ブルーノと対戦し、3ラウンド出血によるTKO負けを喫した。これがスピリットMCでの自分の最後の試合となった。

2007年を前にして非常に悩んだ。韓国にずっといるべきなのか、それとも日本に行くべきなのか。結局、オレは韓国を後にして日本に帰ることにした。韓国のファンにはかなり失望したし、韓国にはもうこれ以上の希望はないと思ったからだ。韓国の格闘技ファンは選手を批判するばかりで、インターネット上ではキーボードウォリアーたちが猛威をふるっていた。いまでも思うが、そういう一部の人間はこの世に必要のない存在だ。

当時のことで思い出すのは『GO! スーパーコリアン』の撮影をしていた時のことだ。オレは番組に命をかけて出演した。「ちょっとオーバーかな」と思いもしたが、さまざまな人が協力してくれて最終的には観る価値のある映像になったと思う。アイデアについては本当に一生懸命考えた。

あの番組について「全部、あらめかじめ筋書きがあったんだろ?」と議論されることがあるが、若干の演出はあったものの、事前に緻密な脚本があって、そのとおり動いていたわけではない。“やらせ”を演じていたのではなかった。

だが問題はあった。こちらがそこまでアイデアを出して出演しているのに、ファンからは非難され、自分としては最善をつくしたが、×××というプロダクションの社長がテレビ会社との間でギャラを“中抜き”したため、もらうべきはずの出演料の残り200万ウォン(当時で約30万円程度)を手にすることができなかった。もしこの男が生きているなら、いつかオレと出会ったときには、この世を去る覚悟をしなければならないだろう。200万ウォンというお金はマジメに仕事をしていれば簡単に得られる額だが、オレはこの番組の撮影に対しても命がけで臨んでいた。そして、その代価は得られることはなかった。

最近、聞こえてくる消息の中で残念なのは、スピリットMCが大会を開いていないということだ。スピリットMCは数年間、ずっと韓国人を活躍させてくれる舞台だったが、このようになってしまったのはあまりにも残念なことだ。だが、物事を大きく見るならば、結局こうなったのもスピリットMC自身の責任だ。他人を恨むことはできない。

自分自身もスピリットMCで試合をさせてもらった人間だが、彼らにはなんの不満もなかった。主催者の立場でオレにできる限りのことをしてくれたことにいまでも感謝している。だが、重要なのは後輩の韓国人選手たちの闘う舞台がなくなったということだ。


■『HERO’S』での2連勝
そして「韓国のバカども、おまえらを後悔させてやる」というバカな言葉を残して、オレは日本に戻った。いまでも同じ考えだが、韓国は韓国自身を無視している。海外に出て成功した人間しか認めないのだ。そんな中でオレも結局はチャンスの多い日本を選ぶしかなかった。

2007年の初め、日本での試合が中止になったオレのもとに非常に貴重なチャンスが到来した。日本で開催されていた『HERO’S』のオープニングファイトに出場することになったのだ。このとき、オレは“ウェスト・ジャパン”というふざけた所属名でRYOという名前で大会に出場した。

蒸し暑い7月、記者会見が開かれた日本のホテル。自分の生まれ育ったのは日本だが、このときオレはあまりにも孤独だった。しかし、どこからかヒソヒソと韓国語が聞こえてくるではないか。オレの名を呼ぶ声のほうを振り向くと、そこには『MFIGHT』の記者たちがいた。子どもの頃、外泊するとお母さんが懐かしくなるというが、そのときオレは心細い中で母に会ったような気がした。

オレの試合はオープニングファイトの第2試合だった。会場は横浜アリーナだった。あのときほど緊張したことはなかった。「相手が入場のときに倒れて欠場してくれたらいいのに」とまで考えた。“超ウルトラスーパーマックス”の緊張度だった。結局は落ち着いて闘って勝つことができた。実際は自分がうまく闘ったというより、相手が自爆してくれたようなものだった。

そしてその年の10月。待ちに待った韓国で、約1年ぶりに試合をした。場所はオレのホームグラウンドである奨忠(チャンチュン)体育館だった。この時も、オープニングファイトではあったが、かなり興奮した。セコンドについてくれた真武館空手韓国支部のイ・ヨンギュ館長はオレの何倍も興奮していた。

結果はオレの1ラウンドKO勝利だった。総合格闘技を始めて以来、初のKO勝利だった。打撃のトレーニングに力を入れたことに対する初めての成果だった。試合後、それまでオレをずっと無視してきた前田日明さんも話しかけてくれて「RYO君、キミなら本戦でも充分に通用するよ」と言ってくれた。

そして同じ日に、秋山成勲がデニス・カーンをKOさせたあと、マイクを取って「我々の大韓民国最高!」という言葉を放った。奨忠体育館の歓声は弾けんばかりとなった。だが、会場にいたオレはめまいがした。その言葉を聞いた瞬間、「これは違うだろう……」という思いが頭をよぎった。奨忠体育館は何か集団催眠にでもかかったようだった。
 
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『RYOのイカサマ師日記4』

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記4』“秋山成勲をまともに理解できない韓国”

2007年10月、『HERO’S』韓国大会、秋山成勲がデニス・カーンを破ったあと、当時の会場の雰囲気は異常なものだった。まるで秋山成勲による、秋山成勲のためのお祭りだった。すべての観客は大韓民国の孝行息子・秋山成勲の名を連呼していた。

その瞬間、オレは寒気がした。自分も韓国人だが、韓国人は本当に単純なバカだと思った。実際にオレも単純でマヌケではあるが、そんなバカのオレでも異常な雰囲気を感じとったことが何より恐ろしかった。秋山成勲の「我々の大韓民国最高!」という言葉に、観客すべてが魅了されているようだった。あたかも第2次世界大戦のとき、何かに導かれた全体主義のように。

もちろんだからと言ってオレが韓国を嫌っているのではない。韓国を愛しているとは言えないが、好きではある。そんな韓国に対する愛情があるから、非難されたとしても批判はできると考えている。韓国が嫌いなら、あえて一年に何度も韓国を行ったり来たりすることはない。

同じ大阪の在日韓国人であった秋山成勲については言っておきたいことがある。彼には日本名の“秋山成勲”という名前があるが、韓国人はあえて“チュ・ソンフン”という名前を使用する。秋山もやはり日本では“秋山成勲”、韓国では“チュ・ソンフン”という名前を使っている。そうした雰囲気を好むマスコミのせいである。

オレも同じだが、たとえ韓国人の血が流れていたとしても、実際は日本で生まれ育っているので、ある程度は日本特有の考え方が身についている。秋山の場合も同じである。韓国人にしては日本人特有の緻密さがあり、日本人にしては韓国人特有のキツい側面を持つ。これは批判ではない。そうした事実があることを認めているのだ。

最近、秋山成勲の『ふたつの魂 HEEL or HERO』という自伝を見た。経済的に余裕のあるほうではないので、買わずに書店で少し読んだだけだが、読んでみて感じたのは「やはり秋山は緻密だ。心の奥深くの本音ははるか遠くに隠されている」ということだった。

自分も格闘技に命をかけている一人のプロファイターとして、秋山成勲という人物は本当に凄いと思う。彼のように緻密に自己管理に徹する部分については、認めているし学びたいとも思う。しかし、その以前に選手 vs 選手として、いつかは秋山成勲と闘って勝ちたいと思う。そして勝ったあとには「RYOがどうやったら秋山に勝てるんだ?」と言うファンに目にものを食らわせたい。

そして、老いぼれた70歳のジジイになって屋台で焼酎を傾けながら「オレはなぁ、昔、あの秋山成勲に勝ったんだぞ……」と管を巻くのがオレの夢だ。もちろん、秋山成勲は格闘技界では自分の先輩なので、実際に会えば尊敬語を使って「先輩!」と言うかもしれないが。

ここで言っておきたいのは、韓国人は秋山成勲という人物を客観的に見ることができないでいるということだ。秋山成勲は格闘家として、内面的にも外面的にもちゃんと認めなければならない部分はある。彼の自己管理能力や努力は、見習うべき点がある。同じ在日韓国人としても共感する部分もあり、「これは違うだろう」と考える部分もある。だがいつかは彼と闘わなければならない。だが自分にとってもっと大事なのは秋山成勲と闘って勝つ前に、オレに生涯初のKO負けを味あわせたイム・ジェソクにリベンジをしなければならないということだ。

韓国の格闘技ファンにも言っておきたいことがある。実現できないことかもしれないが、一応は言っておく。韓国には純粋にスポーツ自体を楽しむ人もいるが、ナショナリズムのためにスポーツを観ている人も多い。国内サッカーの競技場に来て応援する人と、韓国代表の国際戦に来る観客数を見てもそれはわかるだろう。

すべてを発展させるためにはナショナリズムを抜きにして、純粋にスポーツそのものを好きになってほしい。まずは韓国内のスポーツを活性化させて、その上にはじめてナショナリズムがあるべきではないか。もちろん組織も努力しなければならないのは同じで、一般人の思考水準も重要だ。そんな認識が早く変化してスポーツをスポーツとして楽しむことがこの国には必要だと思う。
 
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『RYOのイカサマ師日記5』

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記5』“韓国格闘技と日本格闘技の差”

■オレの考える日本社会、在日同胞
オレは在日韓国人、いわゆる“ザイニチ”である。韓国人の両親の下、日本で生まれ、日本式の教育を受け、20歳過ぎで韓国の大学を卒業し、韓国でプロのファイターとしてデビューした。

オレの中には太極旗と日章旗が同時に存在する。頭の中と考え方には日章旗が関わっているし、自分の重要な部分には太極旗がある。それが入れ替わる時もある。もちろん、冗談半分、本気の半分の話である。

こんな自分に多くの人が「おまえもいじめられたのか?」と聞いてくる。前にも書いたが、自分にいじめられた経験はない。単に家から近いという理由で日本の学校に通っていたが、日本の友だちとはよく一緒に遊んでいた。考えてみると、いじめも本能であると思う。とくに弱い者にこそいじめの心理が存在しているもので、民族的な優越感を持つと相手が自分の下にあると考えるようだ。

愛に国境がないように、いじめにも国境はない。韓国でもいじめは深刻な問題となっている。日本の場合はニュースの報道でも、いじめの特性を見ることができる。外国人が犯罪を犯した時、その人が普段使っている日本名があっても、韓国名で報道をすることがある。

2006年、秋山成勲の起こした“クリーム塗布事件”。実際に、この事件は在日韓国人差別ではないかという話が出るほど、問題の多い事件だった。1次的には秋山本人が間違いを犯したものであるが、2次的には日本特有の民族的特性も影響している。

桜庭戦のあと、秋山成勲はメディアに対して「もともと多汗症で身体が滑りやすい」と説明した。だが、その後謝罪し、禁止されている保湿クリームを使っていたことを告白した。問題はここにある。故意であってもなくても、事件のあとに彼が言葉を言い換えたのは、結局のところ日本社会では嘘、弁解だと理解された。日本人は規則にかなり敏感だ。自分の過ちは恥であると考え、すぐに相手に謝りに行く。そして反則に対してはアレルギーといっていいほど、過敏に反応する。もちろん犯罪に対しても同じだ。

こうしたことから、秋山成勲は復帰したあとも悪役という仮面をかぶることになったのだ。

■日本総合格闘技と韓国総合格闘技の差
韓国と日本を行き来しながら、オレは日本人や韓国人と数多く闘ってきた。勝った試合もあったが、負けた試合もあった。同じ東洋人だが、日本人と韓国人には皮膚感覚で感じられるほどハッキリとした違いがある。

韓国人選手は強い身体能力を活かして力で強く圧迫する傾向がある。そして本能的な闘争心があるため、殴られてもかまわず前に出る。韓国人の選手が日本にくるとKOでの勝利が多くなるのも、そうしたことと関係があると思う。

一方、日本の場合は少し違う。基礎体力や基礎筋力は韓国人選手に比べて少し遅れをとるが、考えを重ねて相手を徹底的に研究して試合をする。

また秋山成勲の話になるが、彼と練習する選手の中に秋山の柔道後輩がいるが、その友人によると、秋山は泰陵(テルン:韓国の国家代表チームが収容される選手村)式の練習方法が合わなかったという。泰陵式トレーニングはあまりにも厳しい追い込み練習ばかりやるので、細部の技術をもっと磨きたいと思っていた秋山とはソリが合わなかったのだ。

エリートスポーツ選手でもこのような差があるように、総合格闘技でも日本と韓国には違いがある。どちらがいいとは言えないが、基本的な差があるということは明らかだ。両方を適当に混ぜればいいが、現実にはそう簡単にはいかない。

日本に吉鷹弘という有名な打撃のトレーナーがいる。シュートポクシングの元チャンピオンで、現役時代には世界的な選手と肩を並べる一流の選手だった。おもしろいのは、この人はもともとサラリーマンで、現在でもサラリーマンであるという点だ。選手時代には二種類の名前で二重生活をしていた。凄い精神力の持ち主だ。

現在は一週間に二度ほど、大阪のシューティングジムでプロ&アマ、一般人を対象にした打撃クラスを開いている。吉鷹先生の話を聞くために全国各地のプロやアマの選手がやってくる。実際に日本の格闘技の打撃技術で最も有名な人で、雑誌で連載もしているが、勝敗予想をすれば90パーセント以上は当ててしまう。

人体に関する理論も鋭いし、キックボクシングだけでなく各種の武術にも造詣が深く、彼の説明を聞けば簡単に理解できてしまう。彼は大企業で夜10時まで働き、そのあとにセミナーを開いている。山本元気、桜井“マッハ”速人たちが彼の話を聞くために大阪までくるのだから、あえて彼がいかに素晴らしいかを説明する必要もないだろう。

指導法も腕が長い者、腕が太い者、胸筋が発達した者など、個人の身体的特性によって違うことを教える。「君はストレートを打つな」、「君はガードをここまで上げろ」など、指導する内容もそれぞれ違っている。もちろん、人体力学と人間の身体の特性を考慮し、それぞれに合った方法を教えているのだ。

このような例を見ても、日本の格闘技は研究・分析する面において強さを持っていることがわかるだろう。

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『RYOのイカサマ師日記6』

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記6』“格闘技はオレの夢をかなえる唯一のアイテム”

一週間、話題も多く問題も多かったこのコラムもいよいよ最後である。ほとんどの話は韓国と日本に関するもの、オレの家族の話、秋山成勲、格闘技についてのものだった。

日本と韓国を行き来する中で、多くの人々がオレの仕事を手伝ってくれている。日本では少し有名になったプロレスラーの弟、崔領二もいつも助けてくれる。韓国では真武館韓国支部のイ・ヨンギュ本部長が実の兄貴のように世話してくれる。

弟の崔領二はイギリス留学に行って、なぜか反強制的にプロレスラーになったが、いまではファンからバイクのプレゼントをもらうほどになった。ちなみに2007年7月の『HERO’S』の試合が終わったあと、オレは東京から大阪までそのバイクに乗って家に帰った。8時間もかかった。

弟に関する話をもう少しすると、崔領二は本当にトンパチな男だ。人をビックリさせるのが好きなヤツで、この場で書けない話も山ほどある。オレも弟もそうだが、二人とも背が高くて骨格がいい。それでオレたち兄弟は小さい頃、誰かに殴られて帰ってくるようなことがなかった。弟は大きくなってから、むしろ×××を殴って帰ってくることもあった。

格闘技はオレにとって夢を叶える唯一のアイテムだ。人生で善悪を知る人間になるためには社会的な尊敬と羨望を引き受ける存在にならなければならない。格闘家は芸能人ではないが、スターになることはできる。オレ自身はスターになりたいという気持ちはないが、多くのことを経験し、世の中のすべてことを理解する人間になりたい。“70歳になって屋台で焼酎を傾ける、落ちぶれたジジイ”になるためには、多くの選手と闘って勝たなければならない。

「いつまで現役を続けるの?」と聞かれることがある。オレはあえて選手生活に対する限界を決めたくはない。ランディ・クートゥアーのように自分の身体が動く日までずっと闘っていたい。

何年か前からオレは“トータルファイター”になるために激しい練習を積んでいる。過去にはただ寝技だけを練習する人間だったが、いまでは総合格闘技の達人になるため、血の出るような努力を続けている。だがいまはまだ過渡期にすぎない。打撃と寝技のつなぎをよりうまくやるためには、もっと試合をしなければならないし、もっとトレーニングを積まなければならない。

ある人に「自分の道場をやってみないか?」と言われたこともあるが、オレは人間がそんなに好きではないので道場経営をするつもりはない。ただ、誰かを教えることについては自信がある。もし自分の道場を作ることがあれば、指導がうまいことで噂になる自信はある。ただ、いまはバイトを続けながら闘い続けることのほうが大事だと思う。

日本と韓国を往来しながら、これから韓国でしたいことは、お世話になっている真武館空手韓国支部の選手を日本の大会に送り出すことと、その道筋を作ってやることだ。もちろんこれは真武館に限ってのことだ。

このコラムでは、オレは秋山成勲についていろいろ好きなことを言ってきたが、結局秋山成勲は自分にとっていつかは闘うべき存在なのだ。格闘家として認めるべき部分はあるし、同じ在日韓国人として共感する部分もあれば、共感できない部分もある。学びたい部分もあれば、絶対に真似したくない部分もある。あらため言っておきたいのは秋山成勲と闘う前に、イム・ジェソクと試合をしてリベンジしたいということ。

いまは日本で試合をしているが、機会があればまた韓国のリングにも上がることもあるだろう。オレのホームグラウンドである奨忠体育館、あるいはほかの会場でファンのみんなと魂を共有したい。

ここまで自分の文章を読んでくれた人に感謝したい。楽しく読んでくれた方、または批判する人もいるだろう。それでもオレのことを忘れず、関心を持ってくれて感謝している。この文章を読んでいるあなたは、真の奇人に違いない。

「さあ、オレを制圧してみろ!」(『GO! スーパーコリアン』でのRYOの決めゼリフ)





 

昨日は、ZERO1の新宿FACE大会に行って来たのだが、曙の火祭り参戦発表、高西翔太の復帰宣言、火祭り残り一枠をかけたワンデイトーナメントの発表など、いろいろなサプライズを丁寧に仕込んであって非常に印象がよかった。メインの崔領二 vs 田中将斗の試合も崔領二の成長もあって熱くていい試合だった。会場に来られた観客は満足したんじゃないだろうか。

IMG_8821.jpg個人的には故橋本真也さんの長男・大地くんがZERO1のジャージを着て、リング周りで場外乱闘の際の観客への対応や雑用などをこなしていたのが印象に残った。たしかに以前から大地くんはプロレスラーになることを明言していたが、実際にZERO1の興行でスタッフとして運営に参加しているという事実は知らなかった。
 

IMG_8833.jpg大地くんは高校生で柔道をしているとは聞いていたが、まだまだレスラーになるには身体の線が細すぎるので、すぐにデビューどうこうはないのだろうけど、橋本二世がデビューするという夢が少しずつ現実に近づいているのかと思うと、不思議な感じがする。メインの試合で崔領二と田中将斗が激しい攻防を繰り広げているときには、グッと拳を握り締めて試合に見入っていた。破壊王の魂は少なからず、大地くんの心に宿っているのかなと、しばし夢想した。
 

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たいちょ
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元『kamipro』編集部員。現在は東京を脱出して三重県在住。フリーライター、通翻訳業は継続中。
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