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東海近辺のライフログ。
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毎週、土曜日or日曜日に更新中のkamipro.com内コンテンツ、『韓流MMAニュース』が更新されました。今週のトピックスは、M-1関連ニュースとFMCとFEG KOREA製作の格闘技ドラマについて。詳細はリンク先でご覧ください。

7.4『M-1チャレンジ』ソウル大会では、以前から、このブログでは一押ししていた“チームタックルの秘密兵器”ヤン・ヘジュンが大活躍。ブラジルの強豪相手に秒殺KO勝利を飾っています。打撃の真っ向勝負でもまったく引かず、ガンガン殴り合うヤン・ヒジュン、かなり注目です。
便利な時代になったもので、彼の試合、youtubeではもうアップされています。打撃をまったく怖がってない闘いぶりは大物の器さえ感じられる。ムベさんも嬉しそうだ。

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以下、『ULTIMATE CHAOS』の続き。

■ウェルター級5分3R
○ ワーチーム・スピリットウルフ[1R KO]ブレット・クーパー ×
8.1『アフリクション』で五味隆典と対戦の噂があったブレット・クーパー。いつものようにボサボサの髪。スピリットウルフはネイティブアメリカンらしく、いかにも根性がありそうな風貌。実績的にクーパーがかなり上だが、はたしてどうか。
スピリットウルフは組んで試合がしたいらしく、遠い間合いからパンチで飛び込んでクリンチを狙う。一方のクーパーは最近5連続KO勝ちしているだけあってスタンドに自信ありげ。しかし、1R後半にクーパーが跳びヒザ蹴りに行ったところをスピリットウルフの強烈な右ストレートを二発被弾して、ストーンとダウン。そのままスピリットウルフはパウンドを落として激勝。クーパーは慢心したか。スピリットウルフの本能的な闘いぶりが印象に残った。

■ライト級5分3R
○ クリス・ホロデッキ[1R RNC]ウィリアム・スリヤパイ ×

FIGHT AND LIFEの高島“マナブゥ”学氏が昔からイチ押ししてきたホロデッキはかつては『戦極』参戦の噂もあったポーランド系カナダ人。TKO、IFLを主戦場として10戦以上の経験があるが、まだ21歳という若さ。対するスリヤパイは37歳でKOTCなどで闘ってきたベテラン中堅選手。タトゥー多し。
ホロデッキ、打撃の展開から組みついてテイクダウンするまでがかなり速い。バックからチョークを狙いつつ、パウンドを落とす。結局、ホロデッキはポジションをキープして残り1分、チョークでタップを奪った。ホロデッキはスタンドからグラウンドへの繋ぎが優れていて、反応の速さが印象に残った。早く日本でも総合の試合をしてほしい。

■フェザー級5分3R
○ ハビエル・バスケス[1R ギロチン]マーク・カーゴシアン ×

ShedogによるとこれがMMAデビュー戦のカーゴシアン。バスケスは1年8か月ぶりの試合。試合が始まると、タックルにきたカーゴシアンを受け止め、バスケスがキュッとギロチンで極めてオシマイ。試合時間はたった19秒。これはカーゴシアンが悪いというよりもマッチメイクが悪い。バスケスに新人のデビュー戦の相手をさせるなんてもったいなさすぎる。

■175ポンド契約5分3R
○ コリン・マッキー[1R KO]ランス・トンプソン ×

トンプソンはこれがデビュー戦、マッキーも4勝1敗のローカルファイターで、どうしてセミ前の試合なのか不明。互いに隙を見てタックルをしかけてテイクダウンを狙うが、寝技はマッキーのほうができるようだ。下から腕十字、ギロチンなどをしかけていく。最後は亀になったトンプソンにマッキーが数発パンチを入れたところであっけなくトンプソンがタップ。あまり強いパンチでもなかったため、実況陣も驚き。ちょっとレベルが低すぎるな~。もともとアンダーカードだったらしいが、よくこの試合がテレビマッチになったものだ……。

■ヘビー級5分3R
○ ギルバート・アイブル[1R KO]ペドロ・ヒーゾ ×

テンションの上がらないまま、セミに突入。前の試合があまりにもひどかったのでヒーゾが出てきたところで「ヒーゾも落ちぶれたなあ」と思ってしまった(笑)。アイブルのセコンドにはジョン・ルイスの姿が。ヒーゾの入場曲はガンズの『WELCOME TO JUNGLE』。ほかにもこの『ULTIMATE CHAOS』では、AC/DCの『THUNDERSTRUCK』など、一時代前のメタルソングが多く流れており、イベント自体が古臭いムードになっていた。いや、メタルは好きなんだけどね。セミで両者ともに名前のある選手なのに、ほとんど声援はなし……。

試合が始まると、アイブルの蹴り足をすくってヒーゾがグラウンドに持ち込むが、アイブルはガードでもかなり落ち着いている。徐々に足でスペースを作りつつ、隙を見て蹴りあげ、スタンドに戻す。立ち上がるまでの動作も速い。スタンドに戻るとアイブルはパンチで攻めまくり、ハイキックはガードされたもののバランスを崩したヒーゾに一気にパウンドを落とす。これがモロに直撃し、ヒーゾは失神。ヒーゾが立ち上がれないのを見ると、アイブルは観客に静まるように合図を出し、ヒーゾが立ち上がるまで礼儀正しく正座で待機。アイブル、最近はオランダからベガスにきてジョン・ルイスとトレーニングを積んでいるらしい。「オレのMMAはこれからがスタートだ」と元気いっぱい。まだまだ闘い続けたいらしい。

■スーパーヘビー級5分3R
○ ボビー・ラシュリー[1R KO]ボブ・サップ ×

2人ともプロレス経験者なので、試合前の会見から口が達者。ボブ・サップもでかいが、ラシュリーの身体もかなり凄い。ラシュリー115キロ、サップは146キロ。ラシュリーはATTでトレーニングしてるとのこと。
試合はネットで映像が出回っているように、スタンドで打撃戦はなく、ラシュリーがサップをテイクダウンしてパウンドをドコドコ落として終わり。一応、ラシュリーはハーフのままでパウンドを打っていたので、MMAに適応できているのかどうか、よくわからなかった。サップは止められる前に二度もタップしていたが、レフェリーに気付いてもらえなかった。
しかし、サップはどこに行っても同じ。会見で「明日はビーストがKOする」とかなんとか言って最後はワハハハハハハと高笑い。当日の入場ではあの音楽でガウンを飛ばして入場、そして試合では強さを見せられずに敗退……。すっかりいつもの光景になってしまった。キャリアを積み上げるという意味では、いままでは非常に順調なのだが、そろそろラシュリーはMMAができる相手との試合をしてほしい。


■総括
アイブルの成長、ラシュリーの将来性は感じたけど、MMAの醍醐味を伝える役割を果たすべきホロデッキ、バスケスの試合は実力差のあるマッチメイクで消化不良だったし、終わってみればトム・アテンシオの試合が一番おもしろかったというオソロシイ大会。
ローカルMMAイベントのPPVなので、スポンサー頼みなのか、試合が終わると選手インタビューのあとに大会のスポンサーへのインタビューが行なわれていた。運営上、こういうスポンサーの露出は不可欠なのかもしれないが、かなりダレる。観客もMMAがわかってそうな客層でもないし、眠気を誘うおじいちゃんアナウンサーの喋りと相まってユル~い大会だった。
 

遅ればせながら『ULTAMATE CHAOS』のPPV放送を観た。『ULTIMATE CHAOS』は米国南部のミシシッピー州のビロキシを本拠地にしているローカルMMA団体のFight Force International(以下FFI)とPrize Fight MMAという新しいプロモーターが共同開催した大会のようだ。

PPVの実況は見たことないボブ・シェリダンとかいう小太りな白人のおじさんで、解説はキンボに勝ちエリートXCを潰した張本人セス・ペトルゼリ(笑)。中継開始前には「ヘルシーだし、ハードに練習してる。次の試合が楽しみだよ」とコメント。もうひとりの解説はデイヴ・ファーガソン。Sherdogでダン・スバーン、ジョー・ドークセンに負けた2勝2敗の選手で同名の選手がいるが、同一人物なのか不明。

■175ポンド契約5分3R
○ ジェームス・オルソー[3R終了 判定3-0]ダニー・アバーディ ×

PPVの第一試合。両者は07年のFFIで一度対戦しており、このときはオルソーが判定勝ちをしている。アバーディはTUFのシーズン3に出ていたことがあるらしく、カリブ・スターンズ、ジョルジ・グージェウに連敗してUFCからリリースされている。デビューは韓国のWXFというのが香ばしい。彼もリー・ガクスーとアントンの弟子というわけか(笑)。対するオルソーはFFIを主戦場とするファイター。打撃で攻めるアバーディに対し、オルソーはテイクダウンで上を取ってパウンド、隙を見てギロチン、下からのアームロックを狙う。グラウンドで上をキープし、パウンドでポイントをゲットしたオルソーが判定勝ち。正直PPVの第一試合にしてはかなりキツいレベル。

■ライト級5分3R
○ ブランドン・ハーダー[2R 肩固め]ジョン・ハリス ×

両者はこれがデビュー戦。ハリスは黒の防弾チョッキにサングラス、長南のようにバンダナを口に巻いて登場。スキンヘッドに金のアゴ髭は高橋和生っぽい雰囲気。そのハリス、試合が始まるとガツガツとアグレッシブな打撃戦を仕掛けるが、ハーダーも慌てずスッと組みついてテイクダウンを狙いつつ、打撃戦でも一歩も引かず、ケージ際でドツキ合いを展開。手数ではハリスだが、ハーダーはパンチ力があり、スミスはダメージを負ってしまう。2Rはハーダーがすぐにテイクダウンに成功。すぐにパスを狙うが、スミスも下から腕十字をしかけ、極まらないと見るとポジションを奪ってマウントを奪取。だが、スタミナが切れて爆発力がなくなったのが痛い。パウンドを打った際にガス欠でハーダーにスイープされ、マウントからパウンドの連打を浴び、最後は肩固めを食らってジ・エンド。両者タフでアグレッシブなシーソーゲームでいい内容だった。第一試合と違って外国の無名の新人でもこんな試合なら充分楽しめる。

■160ポンド契約5分3R
○ トム・アテンシオ[2R終了 TKO]ランディ・ヘデリック×

ご存知、『アフリクション』の副社長トム・アテンシオがプロMMAマッチに登場。巨万の富を手にしていて、すでに42歳のアテンシオ。いったい何をやっているんだと思う人もいるかもしれないが、試合を見て納得。この人は心の底からMMAが好きなんだな。25歳の相手に序盤ボコられてフラッシュダウンを喫すも、無尽蔵のスタミナでアクティブに動き続け、2Rにはヘデリックを追い込み、テイクダウンからのパウンドで猛追。2Rが終わっても気力充分のアテンシオに対し、ヘデリックはうわごとのように「もうダメだ。続けられない」を繰り返し、2R終了時に試合を放棄。鼻が折れていたという話があるが、ヘデリックが折られたのは心のほうだった。

試合後のアテンシオのマイクだが、「紳士的に挨拶」とか、「ダナ・ホワイトの名前は出さず」とかいろいろな記事があったけど、PPV放送で観たらアテンシオは以下のように話していた。

aTENCIO.jpg“Randy, thank you very much. You are tough kid. Hey Randy, screw Dana White for what he said about you bro. Screw him. He is not in the Ring. OK? Anybody who steps in the ring I got a lot of respect. It's not the critic who counts. It's the person who comes in here and puts their heart on the line. Win, lose or draw at least they had the balls in their life to step in here.”

「ランディ、ありがとう。キミは本当にタフなヤツだ。ランディ、ダナ・ホワイトがキミに何を言ったとしても、そんなの放っておけ。あんなヤツ、放っておけ。ヤツはリングに立っていないんだ。誰であれ、リングの上に立つ者であれば、俺は本当に尊敬する。批評家はどうでもいい。ここに来る者は自分の心をさらけ出しているんだ。勝つにしろ、負けるにしろ、引き分けるにしろ、少なくともキミはこのリングに上がる勇気を持っていたんだ」

普段のアテンシオは確かに紳士的であまり挑発もしないが、試合後は42歳にして命を懸けたリングで闘って勝利したこともあって興奮しており、マイクも胸にジーンときた。アテンシオとダナは生き方が全然違うし、どちらが正しいとも言えないが、少なくとも今日のアテンシオはかなりカッコよかった。

アテンシオは元シュートボクセのハファエル・コルデイロ、トレイシー・ヘス、ジョン・ディクソン(懐かしい!)らとトレーニングを積んでおり、試合でも一時も止まらず、常にアグレッシブで前に前に出て闘っていた。1Rが終わったインターバルの際には観客もスタンディングオベーションを送っていたように、この試合は決してイロモノなどではなく、小気味よくケレン味のない試合だった。42歳でこれは凄いと思う。

金満団体だとか、アパレルブランドの宣伝のために道楽でMMAをやっているとか、いろいろと『アフリクション』に対する批判は聞かれるものの、この試合だけでもアテンシオのMMAに対する愛情や心意気というものは充分に伝わったんじゃないだろうか。

長くなったので、後半は別エントリーで。

kamipro.comの『韓流MMAニュース』でも書きましたが、メールでリクエストもあったので、『DEEP 42 IMPACT』でベルナール・アッカに勝利したRYOの『MFIGHT』でのコラムを紹介したいと思います。コラムの内容は本人の半生を振り返る内容になっていますが、それ以外にもZERO1のエース格に成長した弟・崔領二とのこと、同じ在日韓国人である秋山成勲に対しての思いなど、興味深い部分もあります。

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記1』“韓国と日本? それでもオレはオレ”

オレの名前はチェ・ヨン(日本でのリングネームはRYO)だ。日本の名前は崔領(さい・りょう)。日本で生まれ、日本で育った。いわゆる在日韓国人3世、“ザイニチ”だ。韓国の慶北霊泉出身の祖父が日本の九州大分に渡り、我家の日本生活は始まった。

知っている人はわかるだろうが、オレの職業は総合格闘技家である。時々バイトで土方をしたりもするが、それはあくまでも副業であって、自分の生活で最も重要な職業は格闘家である。2006年まで韓国のスピリットMCで活動し、2007年からは日本に帰って選手生活を続けている。

何日かのあいだに、この許されたこの空間を通して、在日韓国人として自分の思いや自分の生い立ち、そして韓国と日本について話してみようと思う。この文がおもしろく読める読者は奇人中の奇人だろう。

オレは1978年、日本の大阪で生まれた。下には弟と妹が一人ずついる。弟はあの有名な! プロレスラーの崔領二だ。もちろん知らない人も多いだろうが、日本では少し有名な人物だ。

日本に住む同胞は、大きく民団(在日本大韓民国民団)系列と朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)系列に分かれている。もちろんこの区分に大きな意味があるのではない。皆さんがよく知っている在日同胞の格闘家、朴光哲や金泰泳は朝鮮総連系列の学校を卒業した。

だが、オレは日本の学校で日本の教育を受けて育った。100%純粋なオリジナルの韓国の血が流れるオレが、日本の学校で日本式の教育を受けて育った理由は「祖国を捨てて日本人になるため」ではなく、単に「学校が家から近いから」だった。

オレが通っていた学校には一学年に在日同胞が二、三人はいた。もちろん多くの日本人の中にあって自分が在日であることを隠したがる場合もあるが、韓国名を日本式に変えて生活をしても、その臭いはどこかに出る。金本、国本、金山といった姓はほとんど在日同胞のそれだった。

オレの場合「高山領」という日本名を使っていた。だが、ある時から“崔領”という名前に変えた。崔領はオレの韓国名、チェ・ヨンをそのまま日本語で読んだものだ。

名前を変えた理由は父によるものだった。父は時々おかしな(?)本を読んでいたが、その影響を受けやすい。その日も一人で本を読んでいて、突然オレを呼ぶと「領は今日から韓国人の誇りを持たなければならない」と言って、大真面目に「おまえはこれから高山ではなく“崔領”だ」と言ってオレの名前を変えた。

その言葉を聞いた時、オレはとくに悩むこともなく、そのまま「はい」と答えてしまった。日本の学校で日本の教育を受けていたが、当時のオレは「オレはオレ」と思うだけで、毎朝太極旗(韓国国旗)を眺めて涙を流したりすることなどなかった。いまでもそれは同じだが、当時のオレは“祖国”や“民族”、“在日”という言葉より、“女子生徒”や“友人”という言葉のほうにもっと興味があった時期だった。

多くの人は、やはりオレがいじめられたと思うかもしれない。もちろん酷い時にはそういうケースもあるが、オレはそうではなかった。日本の友だちとよく一緒になって勉強したり、遊んだりした。

もちろん、多くの在日韓国人の子どもたちは日本人の中にいると多少萎縮する傾向もあるが、オレは自分をカッコいいと思った。なぜか? だってオレは彼らとは違うから。担任の先生も差別や人権について勉強された方で、クラスの友だちに「領を差別したら承知しないぞ」と言ってくれた。そして「差別はバカなことだ」と強調した。

もちろん、若干のいたずら混じりの冷やかしはあった。オレの名前である崔は日本語ではサイを意味する。それで何人かの子はオレの鼻を指さして、「おまえにはどうして角がない?」とからかったりもした。これがギャグコンサート(韓国の人気番組)なら、たった一週間でクビになるレベルの冗談で、結局これはただの冗談で終わった。そんないたずらのために、オレが友人とケンカすることはなかった。当時、オレはかなり外向的な子だった。いまでも自分はバカだが、その時もバカに近かった。いまよりもう少しおしゃべりでうるさいバカだった。

当時、我家は大阪で商売がうまくいく焼き肉屋を経営していた。商売人の家でオレと弟たちは、みな平凡に育った。在日韓国人・朝鮮人が出てくる映画のように「民族の自尊心」のために同級生とケンカをしたり、アイデンティティの混乱を経て「親父! オレはなんで韓国人なんかに生まれたんだ」と反抗することは絶対になかった。

オレは本能的に強い人に弱く、弱い人に強いので、ケンカはほとんどせずに育った。もちろん高校の時、ケンカが強ければ女子生徒にもてる場合もあった。オレも一時は「どうしたらもてるのか?」と悩み、ジェルを塗ったり香水をつけてみたが、効果はほとんどなかった。

※※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記2』 

RYOの半生を綴った手記、第二編です。

※※※※※※
以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記2』“バスケットボールと柔道、秋山成勲とオレの違い”

2007年10月、韓国で『HERO’S』が開催された。その時オレはオープニングファイトに出場して外岡真徳という正道会館の選手と闘った。(後日、この選手は秋山成勲とも試合をして負ける)。そしてこの大会メインイベントは秋山成勲とデニス・カーンの試合だった。

オレは1ラウンドの序盤、KOで外岡選手に勝った。気持ちのいい勝利だった。そして秋山もデニス・カーンを1ラウンドでKOした。この日、たくさんの試合が行なわれたが、話題の中心は断然、秋山成勲であった。

試合後、知人がやってきて「おまえも秋山と同じ大阪出身の在日韓国人なのに、なんでこんなに影響力が違うんだ?」と言ったかと思えば、別の知人は「それは高校の時、向こうは柔道をしてて、おまえはバスケットボールをしてたからだろ?」と言った。

そう、秋山が柔道をしている頃、オレはバスケットボールをしていた。“民族”や“大韓民国”、“在日韓国人・朝鮮”といった言葉に、これと言って関心のなかったオレは高校2年の時からバスケットボールを始めた。ポジションはセンターでレギュラーだった。時々「ダンクシュートできる?」と聞く人がいるので、この場で明かすがダンクシュートはもちろんできる。もっともバスケットボールの球ではなく、テニスボールでの話だが……。

自分の高校が県内で3位に入れば全国大会に出ることができた。だが、オレたちの学校は地区予選ベスト8で3点差で負けて全国大会出場は叶わなかった。全国大会出場の夢が潰えた日、漫画『スラムダンク』の連載も終わった。自分より背が低い相手に、二回連続で蝿叩きブロックに遭ったような悲しい日だった。

高校卒業後、バスケットボールを続けるつもりもあったが、結局バスケットで大学進学はできなかった。オレの通っていた学校が全国大会に出られなかった影響もあったし、バスケットで大学に行くなら入試にも受からなければならなかったが、点数も足りなかった。オレは勉強ができなかったのでなく、しなかったのだ。それはある種の“拒絶反応”のようなものだった。

高校を卒業した後、周りの誰かが「韓国に行ってみたらどうか?」と言った。オレは深く考えることもなく「語学研修にでも行くか」という感じで韓国行きの飛行機に乗った。そしてやはり、深く考えることもなく韓国語を勉強するために語学堂に通い、深く考えることもなく、韓国の大学に進学しようと思った。

オレは語学堂に通って韓国外国語大学の日本語科に入学した。とくにしたいこともなかったが、「同時通訳者は金になる」という話を聞いて入学したのだった。だが当時のオレの韓国語の能力は、それこそどん底だった。語学堂で日本から来た友人と一緒に遊んでいたので、韓国語はうまくならなかった。むしろ韓国にきてもっと日本語がうまくなったような感じだった。

このあと、何度となく玄海灘を行き来しながら紆余曲折を経て、6年もかかって大学を卒業した。勉強するのに忙しいはずなのに、何度も玄海灘を渡った理由は、単にお金がなくなったからだった。そういう時は、日本に帰って土方のバイトをして金を稼ぎ、また韓国に戻ってくる、ということを繰り返した。

■格闘技を始める

多くの選手は女にもてようとして格闘技を始めるケースが多いというが、オレはそれに該当しなかった。23歳になった時、弟に“総合格闘技”というものを紹介されたのだ。弟は「本当におもしろいスポーツだぞ」と言いながら、オレに「格闘技をやってみたらどうだ?」と言った。

ここで弟について説明をしておかなければならない。オレの弟は知っている人はわかるだろうが、日本ではファンからバイクをプレゼントされるほど、けっこう有名なプロレスラーの崔領二だ。

プロレスに入門した動機も突拍子もないものだった。幼い頃、領二がイギリスに留学に行って学校が休みの時、オランダに行き格闘技を習ったことがある。そのジムの主が『UFC1』に出場したジェラルド・ゴルドーだった。そこで格闘技を習った弟はジェラルド・ゴルドーが日本でプロレスの試合をするので、セコンドとして一緒に付いて行った。事件はここで起こった。

弟の整った顔立ちと長身が当時のプロレス団体の関係者の目に止まったのだ。ある関係者は弟に「プロレスをやってみるつもりはないか?」と尋ねたが、このとき領二は「ない」とハッキリ断った。

その後、弟は再びセコンドとして日本に訪れたが、以前に断ったはずのプロレス関係者がまた近づいてきた。すでに断っていたので、その関係者は「プロレスはしなくてもいい。紹介したい人がいるから、ちょっと一緒に会ってみないか?」と言って彼を安心させた。それほど変な話でもなかったので、領二もとりあえずついて行った。

だが運命はここで変わってしまう。弟が会った人物とは、日本の伝説的なプロレスラーで、ZERO1の創立者・故橋本真也さんだった。橋本さんは弟を見てすぐに「君が今回入団することになった崔領二くんか? まあ、頑張ってね」と言ったのだ。こうして領二はいつの間にかプロレスを始めることになった。

一方、オレはオレで韓国でキックボクサーとして活動していたリ・ヨンチョル(※訳者注:長谷川永哲。格闘技通信でも韓国格闘技コラムを執筆していた。ハイパー・キック・リーのリングネームも使う)さんと語学堂で出会い、格闘技というものを本格的に始めていた。この時、韓国には総合格闘技という概念すらなく、K-1も有名ではなかった。オレは日本でも格闘技ジムに入会し、3ヵ月練習しただけでアマチュア修斗の大会に出場した。運よく西日本トーナメントの新人戦で優勝することができた。当時の階級はライトヘビー級だった。しかし、まだプロでやるつもりはなかった。

「優勝したんだから才能はあるのかな?」と思いはしたが、最終的に自分に才能はないという結論を下し、ただひたすら練習をした。だが打撃の練習はまったくやらなかった。誰かの顔を殴ったり、殴られたりするのがきらいだったし、関心もなかった。

それからまた日本でアルバイトをして過ごしていた時、日本の格闘技雑誌に紹介されたスピリットMCの記事を見つけた。イ・ミョンジュという選手が第1回大会で優勝をする姿を見た。彼のヘアースタイルを見て「こんなファッションの選手が韓国ではスターになれるの?」と思った。オレも決して外見はよくないが、韓国でならスターになれるんじゃないかと思った。

オレはまた飛行機に乗って韓国に戻っていた。
 
※※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記3』

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記3』“オレの勝負論、相手の長所を殺せ”

韓国で出場した2004年の『スピリットMCインターリーグ』でキム・ドンヒョン(現UFCファイター)、木村仁要、キム・チュンヒョンに勝利して優勝した。こうしてオレの韓国での格闘家活動は始まった。

韓国に来てからスピリットMCでたくさんの試合をした。『GO! スーパーコリアン』(スピリットMCのリアリティショー)に出演して若干の人気も得た。当時、オレは自分がチャンピオンにならないとダメだという考えにとらわれていた。おかしな話だが、オレが優勝しないと韓国の総合格闘技は発展できないと考えていたのだ。

当時は大きな目標よりも、いかにすればよりおもしろい試合ができるかが重要だと思っていた。にもかかわらず、戦略は自分が相手の長所を殺すことだった。勝負論的に見れば、これは正しいことだが、いま考えると極めてアマチュアの考え方だ。プロなら観衆の視線を意識し、おもしろい試合をしなければならないのは当然のことなのに。

だが、2005年ミドル級の決勝トーナメントでイム・ジェソクのパンチを食らって初の失神KO負けを喫した。それまでのオレの打撃はゴミのようなものだったが、それでも一度もKOで負けたことはなかった。この試合以後、オレはトータルファイターになる必要性を感じ、打撃を本格的にトレーニングするようになる。このときの結果は負けだったが、韓国総合格闘技の発展には少なからず貢献できたと思う。

それから真剣に打撃のトレーニングに打ち込み、2006年4月22日のマイク・アイナとの試合では成長した自分の姿を見せることができた。いま考えればやはり物足りなくはあるが、以前のゴミのようなレベルの打撃をある程度克服した姿を見せられた。そしてその年の10月、アメリカン・トップチームのスティーブ・ブルーノと対戦し、3ラウンド出血によるTKO負けを喫した。これがスピリットMCでの自分の最後の試合となった。

2007年を前にして非常に悩んだ。韓国にずっといるべきなのか、それとも日本に行くべきなのか。結局、オレは韓国を後にして日本に帰ることにした。韓国のファンにはかなり失望したし、韓国にはもうこれ以上の希望はないと思ったからだ。韓国の格闘技ファンは選手を批判するばかりで、インターネット上ではキーボードウォリアーたちが猛威をふるっていた。いまでも思うが、そういう一部の人間はこの世に必要のない存在だ。

当時のことで思い出すのは『GO! スーパーコリアン』の撮影をしていた時のことだ。オレは番組に命をかけて出演した。「ちょっとオーバーかな」と思いもしたが、さまざまな人が協力してくれて最終的には観る価値のある映像になったと思う。アイデアについては本当に一生懸命考えた。

あの番組について「全部、あらめかじめ筋書きがあったんだろ?」と議論されることがあるが、若干の演出はあったものの、事前に緻密な脚本があって、そのとおり動いていたわけではない。“やらせ”を演じていたのではなかった。

だが問題はあった。こちらがそこまでアイデアを出して出演しているのに、ファンからは非難され、自分としては最善をつくしたが、×××というプロダクションの社長がテレビ会社との間でギャラを“中抜き”したため、もらうべきはずの出演料の残り200万ウォン(当時で約30万円程度)を手にすることができなかった。もしこの男が生きているなら、いつかオレと出会ったときには、この世を去る覚悟をしなければならないだろう。200万ウォンというお金はマジメに仕事をしていれば簡単に得られる額だが、オレはこの番組の撮影に対しても命がけで臨んでいた。そして、その代価は得られることはなかった。

最近、聞こえてくる消息の中で残念なのは、スピリットMCが大会を開いていないということだ。スピリットMCは数年間、ずっと韓国人を活躍させてくれる舞台だったが、このようになってしまったのはあまりにも残念なことだ。だが、物事を大きく見るならば、結局こうなったのもスピリットMC自身の責任だ。他人を恨むことはできない。

自分自身もスピリットMCで試合をさせてもらった人間だが、彼らにはなんの不満もなかった。主催者の立場でオレにできる限りのことをしてくれたことにいまでも感謝している。だが、重要なのは後輩の韓国人選手たちの闘う舞台がなくなったということだ。


■『HERO’S』での2連勝
そして「韓国のバカども、おまえらを後悔させてやる」というバカな言葉を残して、オレは日本に戻った。いまでも同じ考えだが、韓国は韓国自身を無視している。海外に出て成功した人間しか認めないのだ。そんな中でオレも結局はチャンスの多い日本を選ぶしかなかった。

2007年の初め、日本での試合が中止になったオレのもとに非常に貴重なチャンスが到来した。日本で開催されていた『HERO’S』のオープニングファイトに出場することになったのだ。このとき、オレは“ウェスト・ジャパン”というふざけた所属名でRYOという名前で大会に出場した。

蒸し暑い7月、記者会見が開かれた日本のホテル。自分の生まれ育ったのは日本だが、このときオレはあまりにも孤独だった。しかし、どこからかヒソヒソと韓国語が聞こえてくるではないか。オレの名を呼ぶ声のほうを振り向くと、そこには『MFIGHT』の記者たちがいた。子どもの頃、外泊するとお母さんが懐かしくなるというが、そのときオレは心細い中で母に会ったような気がした。

オレの試合はオープニングファイトの第2試合だった。会場は横浜アリーナだった。あのときほど緊張したことはなかった。「相手が入場のときに倒れて欠場してくれたらいいのに」とまで考えた。“超ウルトラスーパーマックス”の緊張度だった。結局は落ち着いて闘って勝つことができた。実際は自分がうまく闘ったというより、相手が自爆してくれたようなものだった。

そしてその年の10月。待ちに待った韓国で、約1年ぶりに試合をした。場所はオレのホームグラウンドである奨忠(チャンチュン)体育館だった。この時も、オープニングファイトではあったが、かなり興奮した。セコンドについてくれた真武館空手韓国支部のイ・ヨンギュ館長はオレの何倍も興奮していた。

結果はオレの1ラウンドKO勝利だった。総合格闘技を始めて以来、初のKO勝利だった。打撃のトレーニングに力を入れたことに対する初めての成果だった。試合後、それまでオレをずっと無視してきた前田日明さんも話しかけてくれて「RYO君、キミなら本戦でも充分に通用するよ」と言ってくれた。

そして同じ日に、秋山成勲がデニス・カーンをKOさせたあと、マイクを取って「我々の大韓民国最高!」という言葉を放った。奨忠体育館の歓声は弾けんばかりとなった。だが、会場にいたオレはめまいがした。その言葉を聞いた瞬間、「これは違うだろう……」という思いが頭をよぎった。奨忠体育館は何か集団催眠にでもかかったようだった。
 
※※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記4』

※※※※※※以下『MFIGHT』から引用※※※※※※

『RYOのイカサマ師日記4』“秋山成勲をまともに理解できない韓国”

2007年10月、『HERO’S』韓国大会、秋山成勲がデニス・カーンを破ったあと、当時の会場の雰囲気は異常なものだった。まるで秋山成勲による、秋山成勲のためのお祭りだった。すべての観客は大韓民国の孝行息子・秋山成勲の名を連呼していた。

その瞬間、オレは寒気がした。自分も韓国人だが、韓国人は本当に単純なバカだと思った。実際にオレも単純でマヌケではあるが、そんなバカのオレでも異常な雰囲気を感じとったことが何より恐ろしかった。秋山成勲の「我々の大韓民国最高!」という言葉に、観客すべてが魅了されているようだった。あたかも第2次世界大戦のとき、何かに導かれた全体主義のように。

もちろんだからと言ってオレが韓国を嫌っているのではない。韓国を愛しているとは言えないが、好きではある。そんな韓国に対する愛情があるから、非難されたとしても批判はできると考えている。韓国が嫌いなら、あえて一年に何度も韓国を行ったり来たりすることはない。

同じ大阪の在日韓国人であった秋山成勲については言っておきたいことがある。彼には日本名の“秋山成勲”という名前があるが、韓国人はあえて“チュ・ソンフン”という名前を使用する。秋山もやはり日本では“秋山成勲”、韓国では“チュ・ソンフン”という名前を使っている。そうした雰囲気を好むマスコミのせいである。

オレも同じだが、たとえ韓国人の血が流れていたとしても、実際は日本で生まれ育っているので、ある程度は日本特有の考え方が身についている。秋山の場合も同じである。韓国人にしては日本人特有の緻密さがあり、日本人にしては韓国人特有のキツい側面を持つ。これは批判ではない。そうした事実があることを認めているのだ。

最近、秋山成勲の『ふたつの魂 HEEL or HERO』という自伝を見た。経済的に余裕のあるほうではないので、買わずに書店で少し読んだだけだが、読んでみて感じたのは「やはり秋山は緻密だ。心の奥深くの本音ははるか遠くに隠されている」ということだった。

自分も格闘技に命をかけている一人のプロファイターとして、秋山成勲という人物は本当に凄いと思う。彼のように緻密に自己管理に徹する部分については、認めているし学びたいとも思う。しかし、その以前に選手 vs 選手として、いつかは秋山成勲と闘って勝ちたいと思う。そして勝ったあとには「RYOがどうやったら秋山に勝てるんだ?」と言うファンに目にものを食らわせたい。

そして、老いぼれた70歳のジジイになって屋台で焼酎を傾けながら「オレはなぁ、昔、あの秋山成勲に勝ったんだぞ……」と管を巻くのがオレの夢だ。もちろん、秋山成勲は格闘技界では自分の先輩なので、実際に会えば尊敬語を使って「先輩!」と言うかもしれないが。

ここで言っておきたいのは、韓国人は秋山成勲という人物を客観的に見ることができないでいるということだ。秋山成勲は格闘家として、内面的にも外面的にもちゃんと認めなければならない部分はある。彼の自己管理能力や努力は、見習うべき点がある。同じ在日韓国人としても共感する部分もあり、「これは違うだろう」と考える部分もある。だがいつかは彼と闘わなければならない。だが自分にとってもっと大事なのは秋山成勲と闘って勝つ前に、オレに生涯初のKO負けを味あわせたイム・ジェソクにリベンジをしなければならないということだ。

韓国の格闘技ファンにも言っておきたいことがある。実現できないことかもしれないが、一応は言っておく。韓国には純粋にスポーツ自体を楽しむ人もいるが、ナショナリズムのためにスポーツを観ている人も多い。国内サッカーの競技場に来て応援する人と、韓国代表の国際戦に来る観客数を見てもそれはわかるだろう。

すべてを発展させるためにはナショナリズムを抜きにして、純粋にスポーツそのものを好きになってほしい。まずは韓国内のスポーツを活性化させて、その上にはじめてナショナリズムがあるべきではないか。もちろん組織も努力しなければならないのは同じで、一般人の思考水準も重要だ。そんな認識が早く変化してスポーツをスポーツとして楽しむことがこの国には必要だと思う。
 
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『RYOのイカサマ師日記5』

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