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東海近辺のライフログ。
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最近、韓国ではDREAM叩きの風潮でもあるのか、理解に苦しむような酷い記事が多い。どれだけ酷いかは読んでもらった方が早い。以下は武術系のニュースを提供するウェブサイトの記事の全文だ。
 
※※※※※※MOOKAS2010年03月23日付けの記事※※※※※※
 
『DREAM.13』フェザー級タイトルマッチに拍手なし
 
テイクダウンの回数の多いビビアーノが勝利、観衆は冷淡
試合が終わっても拍手喝采はなかった。 『DREAM.13』のメインイベントでビビアーノ・フェルナンデスがヨアキム・ハンセンを相手に2-1の判定勝ちを収めたが、観衆の反応は冷たかった。これが横浜アリーナで開催された『DREAM.13』の現場の雰囲気だった。
 
そこにフェザー級GP決勝戦までに見せていたダイナミックな姿はなかった。1Rの序盤、ビビアーノは用心深く試合を進めていった。左のローキックや右ハイキックを続けてハンセンの足に狙いを定めた。テイクダウンを一度成功させたが、パウンドを落とすまでには至らず。
 
2Rも1Rと同様の試合展開。ビビアーノは再び両足タックルでテイクダウンに成功したが、明確なポイントを奪うことはできなかった。ハンセンも左のローキックに続き、右アッパーを命中させてテイクダウンに成功したが、その後は印象的な攻撃につなげることはできなかった。
 
3Rもやはり同じだった。両選手は消極的な試合を続け、結局判定はハンセンより何度か多くテイクダウンを成功させたビビアーノに軍配が上がった。たった一度もファンの歓声を引き出せないつまらない試合だった。
 
キム・ヒョンギル記者
 
※※※※※※引用終わり※※※※※※
 
ある試合を観て、面白いと感じるかつまらないと感じるかは人それぞれだ。人の感じ方には違いがある。格闘技の試合だけに限らず、その競技の技術や選手に対する知識をどれだけ持っているか、あるいはどれだけその競技の試合を観てきたかという経験の差が、試合の感想を導き出す上で大きな影響を持っている。
 
この記者は観ていてつまらなかったのだろう。そう感じたことは別に偽る必要はない。ただし、人によっては、あの試合を観て非常に技術の高い好試合だったと評価する人もいるのだ。そうした見方の違いが明確に存在するからこそ、他の記者は公的な立場で書く試合のレポートで、客観的な表現につとめるのではないのだろうか。
 
この記者が実際に本当に横浜アリーナにいたのかは不明だが、テレビを観ていただけだとしても試合で“ハンセンコール”が起こっていたことや、攻防に対する何らかの反応が観客席からあったことはわかったはずだ。MMAに限らないが、歓声のあがらない試合=つまらない試合なのだろうか? そうではないという意見を持つ人がいるからこそ、通常の記者は独善的で断定的な書き方を敢えてしないのだ。
 
言論を通して批判記事を書いてはいけないと言っているわけではない。まっとうな批判ならば主催者は参考にして聞くべきだし、今後の反省にすべきだ。けれども、このように批判をする者がその競技の基本的なルールも把握していないのでは、せっかくの批判もまったく意味をなさない。この記者は結局、大会の最初から最後まで1R10分、2R5分のルールというPRIDE時代から続くDREAMの伝統的なルールにさえ気づかないまま、ぼんやりと試合を観て書いてしまったのだ。この記事で記者が唯一提示できたものがあるとすれば、それは己の無恥さ加減だけである。
 
プロの格闘家は人生のすべてをリングで出しつくすために、必死で準備を重ね、死ぬ覚悟を持ってリングに上がっている。はたして、この記者は自分の闘うべきリング(紙面)の上でメインを務めた選手たちと同じ程の覚悟があったと言えるのだろうか。
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チーム・パシのヘッドコーチ兼ファイターのウィ・スンべが、『MFIGHT』のインタビュー(1月21日)に答えている。今週のkamipro.comの『韓流MMAニュース』に紹介しきれなかったので、ここで紹介。
 
【ウィ・スンべ略歴】
afdsads.jpg現在33歳。元コリアン・トップチーム所属選手、現在はチーム・パシを主宰。スピリットMCのインターリーグで優勝してプロ選手になるが、その後KTTがスピリットMCと揉めて選手の出場機会が奪われたため、独立して自分のジム、チーム・パシを立ち上げる。チーム設立後は、ウィ・スンべと同様の理由でKTTを離脱した人間やスネにキズを持つ選手流浪のファイターが多数集結。そのメンバーはイ・ウンス(PRIDE出場経験あり)、イ・ジェソン(『戦極』出場経験あり)、ナム・ウィチョル(スピリットMCウェルター級元王者)、ユ・ウソン(海外イベントを中心に活動中)という面々で、KTTと並ぶ強力なMMAチームとなった。ウィ・スンベはヘッドコーチ以外にも、現役のプロファイターで、85キロの階級で主に試合をしており、MMA戦績は5勝3敗。かつて吉田道場に在籍した村田龍一や『M-1チャレンジ』などの国際戦は3戦3敗。
 
 
 
以下、日本の格闘技ファンでも興味のある部分を要約
 
■『武神』について
「『武神』に出場するつもりだったので、減量していた。本当につらかったが、大会が直前でキャンセルになって非常に怒りを覚えている。しかも、主催者は大会がキャンセルになっても、一言も言ってこなかった。中止になったのは『武神』アメリカ大会だったが、中止になったのは今回が初めてじゃない。『武神』側とは2度試合のオファーがあったが、2度ともキャンセルとなった。減量までしていたのに、前日になって知人から大会が中止になったと伝え聞いた。まったく連絡してこない主催者の誠意のない対応に余計腹が立った。なので『武神』の関係者には『このような対応をするなら2度とチーム・パシの所属選手は出場させない』とメールを送ったら、はじめて謝罪の電話がかかってきた。今後は契約書なしでは『武神』とは話を進めないつもりだ。減量するということは本当につらいことなんだ。別に主催者に高潔な敬意とかを求めているわけではない。選手の苦しみを少しでも知っているのであれば、『申し訳ない』の一言ぐらいあってもいいだろう。これ以上、韓国人選手を堪え難い状況に置いてほしくない」
 
■2009年『Dynamite!!』について
「『武神』の大会の準備をしているあいだも、M-1、『戦極』などの大きな大会から4度もオファーがあった。『武神』が中止になった後、クリスマスに焼酎を飲んでいる時に『Dynamite!!』からライトヘビー級でゲガール・ムサシとの試合のオファーがあった。“無差別級”の試合が当たり前の時代は終わった。誰もがミノワマンになれるわけじゃないんだ。ライトヘビー級の選手は、ほとんどが通常体重が100キロ以上だ。80キロ後半まで減量していた自分がトップクラスの選手と闘えるだろうか? 準備期間がもっとあれば受けただろうが、ゲーリー・グッドリッジのように、何の準備もしない状態でリングに上がって殴られたくはないと考えた」
 
―――――
 
『武神』アメリカ大会中止の話は酷いですね。もはや韓国で定期的に大会を開催している団体は一つもなくなってしまった。

10月26日は、韓国の大木金太郎(キム・イル)の命日である。毎年、大木金太郎の後継者であるイ・ワンピョがこの日に大木金太郎の追悼記念興行を開催しているが、今年同じ日に三周忌記念興行を行なうようだ。

イ・ワンピョ(李王杓)――。日本では昨年11月、53歳にしてボブ・サップと試合をした人物として名前が知れているかもしれない。プロレスにおいては国際プロレスや全日本プロレスに参戦歴はあるものの、韓国においてはスーパー・ストロング・マシン2号の中の人であった力抜山に実績で引けを取るものの、晩年まで大木金太郎との関係を密にしていたことから、大木から直々に“後継者”に任命され、韓国のプロレス界の中心人物となった男である。

しかし、現在の韓国格闘技界&プロレス界におけるイ・ワンピョの評判はあまり芳しいものではない。それは“大木金太郎”の名前を使って、彼の死後も長々と商売していることや、昨年の“MMA”、あるいは“リアルファイト”と銘打っておきながらボブ・サップとれっきとしたプロレスマッチをぬけぬけとやり通したことなどが原因に挙げられる。もちろん団体関係者の追悼大会を行なうこと自体は悪いことではないが、彼の主宰する韓国プロレス連盟は年に2、3度しか大会を開催しないにもかかわらず、毎年大木金太郎の追悼興行なっているのだから「他人のふんどしで相撲を取る」といわれても仕方のない状況だ。最近では、自らの組織を堂々と「大韓総合格闘技協会」に改称し、その総裁を自称しているという。

そういった、現在・過去のイ・ワンピョの胡散臭さはここでは置くとして、今年の10月26日の大木金太郎三周忌興行に向けてメディアに登場し、大木金太郎との思い出話を話したりしている。現存する関係者の中で、晩年に至るまで大木金太郎と密接な関係を築き続けてきた人物の筆頭がイ・ワンピョであることは間違いなく、師匠に対する孝の部分は評価されてしかるべきでる。

韓国でもそうした視点から、最近『スポーツ朝鮮』がイ・ワンピョに取材し、生前の大木金太郎との思い出話を長文にわたって掲載している。当時のイ・ワンピョの視点を通したものではあるが、韓国における大木金太郎の姿を知る上で興味深い情報なので、以下に紹介する。韓国人が大木金太郎を語る場合は「キム・イル」の名称を使用するので、翻訳の際にはそのまま「キム・イル」と訳した。


※※※※※以下、『スポーツ朝鮮』から翻訳転載※※※※※

09年9月28日付『スポーツ朝鮮』紙掲載記事「忘れられない瞬間、イ・ワンピョが語る“大木金太郎”との思い出」より

“頭突き王”キム・イル(大木金太郎)の後継者、イ・ワンピョ大韓総合格闘技協会総裁は近頃忙しい。故キム・イル先生の3周忌追悼興行の準備のためである。10月26日、オリンピック第2競技場にて、“キム・イル記念館”建設の広報も兼ねて大会を開催する。いつの間にか韓国プロレスの象徴となっていた彼は、生涯キム・イルとともにいた。師匠が世を去る頃には彼の手足となって生き、彼の人生はいつもキム・イルで満たされていた。最近でも口さえ開けば「大木金太郎先生」のことが出てくる。

■英雄キム・イルとの出会い
「1975年だから19歳の時です。キム・イル体育館でプロレスラーの第1期生を募集するという報を耳にしました。当時のキム・イルは、パク・チョンヒ(朴正煕)大統領に寵愛された国民的英雄でした。先生の顔を見るだけでも光栄な時代でした。幼い頃からテレビでキム・イル先生を見て、あんな英雄になりたいと決心していたので、テストを受けるのもためらいませんでした。自分は身体も大きい方だったし、何より熱い血がたぎっていた年頃でもありました。テストを受けに来た人は100人以上いて、韓国中の力自慢が集まっていました。ただ、資格条件は身長180cm以上、体重80kg以上だったので、自分は少し足りませんでした。身長は187cmでしたが、体重が少し足りなかったのです。けれどもダメもとでテストを受けました。プッシュアップ50回、ブリッジ30回、スクワット300回……。英雄が見守る中、全員が全力を出しました。受かるとは思いもしませんでした。私は条件を満たしていませんでしたから。けれども直にキム・イル先生を見れたので受からなくても悔いはありませんでした。ところが、後になって合格通知が届いたんです。信じられませんでした。自分がキム・イル先生の弟子になれるなんて……。月日が経ってから先生に聞いたことがあります。『私より力が強くて身体も大きい人も多かったのに、どうして体重の足りない自分を選んだんですか?』と。師匠の答えは『目が生きていたからさ』とシンプルに答えました。この時の合格者は4人でした」

■幸福の終わり、苦労の始まり
「ですが、世界のすべてを手にしたような気持ちは一日しか続きませんでした。翌日、光化門(クァンファムン)文化体育館に行きました。希望に満たされていた私の胸は、体育館のドアを開けた瞬間に音を立てて崩れ落ちました。そこには15人の大男が仁王立ちしていて、まず『スクワット1000回』と命令されました。100回もすれば足がガクガクになるスクワットを休まず1000回しろというのです。死ぬ気でなければ発作を起こしていたでしょう。何百回かしたところで、ふくらはぎと太ももがガチガチに固まって言うことを聞かなくなりました。私は『これは新入りイジメに違いない』と思いました。しかし、“死のスクワット1000回”が毎日の準備運動に過ぎないことを知ったのは、翌日のことでした。スパーリングはさらに過酷でした。15人の先輩が順々にリングに上がり、10分ずつ私をグチャグチャにして降りて行くんです。どんな技をかけてもビクともしない先輩と150分間ずっと取っ組み合いをすることを考えてみて下さい。まったく手加減はされませんでした。そしてこのスパーリングには“まいった”は許されませんでした。死んでも150分をやりきらないと終わらないのです。もちろん、少し行き過ぎた場面があれば、見守っていた先生が止める時もありましたが。ただ、ありったけの力を絞り出して練習についていくと、少しずつ技術が身についてきて、2年で身長も190cm、体重も100kgを超えるようになっていました」

■月尾島での焼酎パーティ
「キム・イル先生の門下生になって1年ほど経った頃、道場生全員が仁川(インチョン)の月尾島(ウォルミド)に集まっての宴会がありました。土砂降りの雨の中、海辺の刺身屋に着いたのが午前11時。そこから焼酎を飲み始めました。先輩は少しずつ飲んでいましたが、新入りはグラスで飲まなければなりませんでした。キム・イル先生もよく焼酎を飲んでいましたよ。最初は一緒に飲んでいましたが、後には席を外すことが多くなりました。お酒はやめたんでしょうね。12時が過ぎると、一人、二人と倒れていき、3時になると起きている者は三人しかいませんでした。結局、焼酎は自分一人で26本も飲んでいました。無我夢中でしたよ。4時頃なって先生が『出るぞ』と言って、みんなでタクシーに乗ってソウルへ向かいました。ところが、タクシー中で揉め事が起きました。突然場所を変えたことで、自分の酔いが回ったのが原因でした。前の席に座っていた先輩が、後ろを向いて『ワンピョ、大丈夫か』と聞いてきました。『はい』と言えば済んだのに、今でもなぜそうしたかわかりませんが、振り返った先輩の顔を平手で強く叩きながら「気にすんな、ボケ」と言ってしまったんです。当時、先輩のレスラーほど怖い存在はなく、当時は自分が喫茶店でお茶を飲んでいても、先輩が姿を見せれば倉庫の中に隠れたほどでした。酔って頭がおかしくなっていたんでしょうね(笑)。ソウルまでどうやって帰ってきたのか、今でもサッパリ思い出せません翌日も午前6時から練習が始まりました。すると前述の先輩が前に出てきて、大声で叫びました。『イ・ワンピョ、前に出ろ!』。そして緊張する私に『スクワット3000回!』と叫ぶのです。周囲には野球バットを持った先輩たちが取り囲んでいました。スクワット3000回こなすのに3時間かかりました。何日間かは足が使えませんでした」

■師匠をだます
「ある日、先生が私を呼んで『ワンピョ、運転免許証はあるか?』と聞くのです。『ありません』と答えると、30万ウォンをポンと渡して『取ってこい』とおっしゃいました。当時の30万ウォンは、もの凄い大金でした。雲の上の存在である先生からもらったお金ですから、すぐに自動車学校に行くべきでした。ところがなぜか同期たちを呼び集めて、私はどんちゃん騒ぎをし、お酒や肉代として使い果たしてしまいました。それから二ヵ月ぐらい過ぎた頃、先生が『取ったか』と尋ねるんですよ。ビックリしてうっかり『取りました』と言ってしまいました。すると『仁川に行くぞ』と言うんです。どうする事も出来ず、無免許なのに冷や汗と涙をボロボロ流しながら行きましたよ。下手なりに運転の仕方は知っていましたが、乗せているのが大切な先生なのでビクビクしましたよ。一歩間違えば国民的英雄をあの世の中に送る事件を起こすハメになるんですから。それで仁川から帰ってきたらすぐに自動車学校に通い始めました(笑)。先生は後でその無免許運転のことを知ったようですが、表情には出しませんでした」

■天下のキム・イルも呆れた?
「釜山の海雲台(ヘウンデ)で11人が合宿をしている時でした。地元の有志が訪ねてきて『キム・イル先生を招待したい』と言って焼肉屋で食事をすることになりました。“海雲台カルビ”は他の地域のカルビと違って手のひらぐらいの大きさでした。11人のレスラーが一斉にカルビにかぶりつく様はなかなか見ものでしたよ。自分も我を忘れて食べました。ちょうどお腹も空いていたところでしたし。骨が山積みになるほどになって、先生が咳払いをして『お前たち、少し考えて食べなさい』と言いました。いくらプロレスラーであってもむやみやたらに食いすぎるのが気に入らなかったようです。その時カルビは合計で450本以上も食べました。宿舎に帰っても食事が用意されていたので、先生が『これも食っとけ』と言うので、もちろんみんなで平らげました。当時、キム・イル軍団に食事をおごると豪語した人は、みな酷い目に遭いました。いつもレスラーは一人で肉を20人前は食べますからね」

■先生は……
「先生はいつも忍耐の“忍”を強調しました。サインもいつも“忍”の字を書きました。忍耐できない者はレスラーになれないということでしょう。先生はリングでは鬼でしたが、リング外では非常に慈しみ深い方で、いつも弟子たちを暖かく見守ってくれました。おしゃれにも気を使う人で、色を合わせていつも服を着るなど、いつも清楚な身なりをしていました。後輩に対するしつけもしっかりしていて、いつも『礼儀正しく行動するように』と言っていました。歳下の人に対してもむげにはしません。いつ頃からか、私に対しても「イ館長、このようにして下さい」と言うので、「先生、そんなに丁寧に言わなくても……」と言いましたが、頷かず亡くなる時まで私に敬語を使いました。
ファイターとしての先生については、説明する必要もないでしょう。韓国でよりも、日本でのほうが人気がありました。怪力で有名で、先生のヘッドロックをかけられると、アゴの骨が砕けそうでした。70年代の末に『高弟』という映画の撮影がありましたが、先生に頭突きを食らって倒れる役者がいましたが、実際に先生の頭突きを受けて、本当に死にそうになる事件もありました。先生が頭突きをまともにやってしまったので、その役者は深刻な痛みで一週間も起きることができませんでした。先生は体格も良かったですし、スポーツは何をやらせてもが上手でした。ですから女性からの人気も凄いものでした。日本に行けば会場やホテル周辺に女子高生たちが置いて行った花束や贈り物が山ほどありましたし、試合の最中には先生の名前を連呼する人が大勢いました」

■朴正煕元大統領との絆
「これは後に聞いた話ですが、60年代の後半のことです。ある日、パク・チョンヒ(朴正煕)元大統領のパク・ジョンギュ秘書室長が訪ねてきました。そして先生を車に乗せて、漢江(ハンガン)から現在の狎鴎亭洞(アックジョンドン)の方を指さして『近いうちにあの辺に橋を造るから、向い側に土地を買っておきなさい』と耳打ちをしたそうです。先生は『5万坪買うお金はあるが、10万坪買いたいから日本行ってもう少し稼いでくる』と言いました。ところが、その年の夏に深刻な日照りで韓国中が大騷ぎになると、先生は持っていたお金をポンとはたいて、揚水機300台を買って政府に寄贈されました。パク大統領が先生を愛する理由が分かりましたよ。
晩年は、ソウルの病院で長く過ごしましたが、訪ねて行くたびに病院の裏の焼肉屋に連れて行ってくれました。そして『イ館長、焼酎1本飲ませて下さい』と言って、一杯だけ盃をお受けになりました。私への配慮からでした。10月26日は、先生の3周忌ですが、『イ館長だけ信じる。よろしくお願いする』と言ってこの世を去りました。最後までプロレスの中興を願っていました。歯を食いしばって再度チャレンジしないといけませんね」

思うところがあって7年間、韓国に住みながら、さまざまなかたちで自分が見聞きしてきた韓国の格闘家、あるいは韓国に関係のある格闘家の素顔やエピソードを紹介するようなコラムをここで不定期に書くことにしました。韓国という国には破天荒で、突拍子もなく、愛すべきバカがたくさん存在します。もちろん格闘技界にも珍事件・迷走話、ズンドコ話が満載(つい最近も経験したばかり)。そんな人間味満載の韓国人格闘家を紹介するシリーズしたいと思います。


■韓国格闘家列伝 奥田正勝編

■奥田正勝はどこへ消えたのか?
ok.jpg韓国に住んでいた頃、ある日本人格闘家に出会った。
その男の名は奥田正勝。実際に会った奥田は寡黙で言い訳というものをしない僕のイメージするサムライに最も近い男だった。その誠実な人間性から、韓国の総合格闘技草創期には地元の韓国人を凌ぐ人気を誇った。当時、奥田の指導する真武館とは姉妹ジムの関係にあったコリアン・トップチームのメンバーたちをして「この世で最も尊敬する選手は奥田だ。アイツは漢だ」と言わしめた不思議な魅力の持ち主である。
しかし奥田は、07年2月にアメリカで行なわれたWBF(World Best Fighter)で判定負けして以来、忽然と姿を消した。奥田正勝のその後について、克明に報じた記事はないので、彼への思いを整理する意味でもここで紹介しようと思う。

■アマチュア格闘家から韓国へokuda_back.jpg
奥田正勝は90年代初頭に旗揚げしたリングス、パンクラスといった新興総合格闘技を見て、感銘を受け、高校生の時に九州を拠点とする真武館空手に入門する。選んだ理由は真武館が空手のスタイルよりもリングスと同じような掌底による顔面攻撃、投げ、関節技、寝技が認められた総合格闘技ルールを採用していたからである。奥田は真武館空手が主宰するオープントーナメント“武人杯”で郷野聡寛、中尾受太郎、今成正和といった外敵を迎え撃ち、96年からは重量級で6連覇、無差別級では98年から3連覇を成し遂げる。さらに奥田はアマ修斗やタイタンファイトなどにも出場して実績を残すなど、アマチュア格闘技界では常に上位に顔を出す常連選手となった。

だが、奥田はプロの格闘家になるつもりはなかった。一般人として仕事を探していた奥田は、地元・福岡で造園業を営んでいた父の知人である韓国人と出会い、誘われるままに01年1月頃から韓国に移り住み、ソウルで会社勤めをするようになる。この時、すでに奥田は格闘家としては引退したつもりでいた。ところが、日本のPRIDEやK-1人気の影響を受けて02年に韓国でスピリットMCが誕生して国内で格闘技熱が高まると、奥田の中に眠っていた格闘家の血が騒ぎ出した。奥田はソウルの語学堂に通いながら、さまざまな韓国の格闘技ジムに出稽古を始めるようになる。この時に出会ったのが、キックボクサーの長谷川永哲であり、総合格闘家のRYOである。

総合格闘技が注目され始めたばかりの韓国において、本格的にトレーニングを積んだ者はほとんどおらず、どこに出稽古に行っても奥田に敵う韓国人はいなかった。「自分にも韓国で教えられるものがある」という感じた奥田は、韓国で真武館空手道場を開くことを決意する。

■韓国で道場を開設、そしてプロデビュー
ok4.jpg03年7月、奥田は韓国・ソウル市に真武館空手韓国本部を設立し、その師範代となった。新道場の名を知らしめるため、奥田は03年のパンクラス・ネオブラッドトーナメントでプロデビューを果たす。奥田は一回戦で中台宣にKO勝ちしたものの、決勝では中西裕一に敗れ、準優勝に終わった。奥田はプロ格闘家として活動していくことに少しの手ごたえをつかんだが、肝心の道場生は一向に集まらず、奥田は道場で練習したあと、キックミットを枕にして寝る極貧生活を続けていた。

そんな中で奥田は03年8月、スピリットMCから分派したネオファイトに参戦する。1回戦ではキム・デウォンを打撃で圧倒し、KO勝利。同日に行なわれた2回戦でも奥田は1RKO勝ちを収め、格の違いを見せつけた。12月の決勝大会でも、準決勝で現スピリットMCのミドル級王者イム・ジェソクをヒザ十字固めであっさり撃破。決勝戦でもホン・ジュピョ(後にパンクラスに参戦)を圧倒した。だが、やはり韓国は日本人にとって敵地だった。マウント状態や奥田がチョークをしかけているのに、レフェリーはブレイクを命じ、何度も勝機を奪われた。ペースを乱した奥田が2Rにパウンドを浴びて鼻血が出ると、試合はすぐにストップされ、TKO負けが宣告されてしまった。被害者であるはずの奥田は言い訳や抗議もせず、静かにリングを降りた。あまりにも韓国人選手に肩入れする主催者の対応に観客はブーイングを飛ばし、奥田を大いに称えた。

だが、この後も奥田は理不尽な仕打ちを受け続けた。04年9月に参戦したスピリットMCの無差別級トーナメントでは、奥田の対戦相手イム・ジュンスが試合中に足を痛めると、レフェリーはタイムを取ってイムに回復する時間を与えた。不可解なのはレフェリングだけではなかった。30キロ以上も重い相手に、奥田は試合を有利に進めたが、判定でも1-2のスプリットで負けを宣告されている。僕が奥田に出会ったのは、この試合の一週間後だった。

■秋山成勲と奥田正勝
ok3.jpg僕は同じ日本人として、ネオファイトやスピリットMCの贔屓判定やレフェリングに激しい怒りを覚えていた。奥田本人に「悔しくないのか」「不満はないのか」という質問をぶつけたが、彼は不満を口にするどころか、こちらが拍子抜けするほど平穏な表情で、「自分が弱いから負けた」とだけ答えた。そのあまりにも浮世離れした佇まいに、「こんな男がいるのか」と衝撃を受けた。KTTの男たちが男惚れするはずである。一度会っただけで、すっかり僕は彼のファンになっていた。そんな奥田の魅力は、韓国の格闘技ファンにも伝わっており、韓国の格闘技大会では、いつも野太い「奥田コール」が鳴り響いていた。それはナショナリズムの強い韓国において非常に珍しい光景であった。

日本では無名に近い奥田が、05年11月の『HERO’S』韓国大会のメインで、秋山成勲の相手に抜擢されたのも韓国での人気が評価されたからだった。この試合で秋山成勲は強烈なパウンドで奥田にKO勝ちし、韓国での人気を確固たるものにするのだが、韓国の格闘技記者たちは日本人の奥田を応援する者が多かった。それは、韓国への愛国心を表明しつつも日本語で通す秋山に対し、理不尽な仕打ちを受けながらも韓国への愛情を失なわず、流暢な韓国語で話す奥田を見ていたからである。だが、そんな裏舞台を知らない韓国の一般視聴者は秋山成勲の「大韓民国最高!」という言葉に熱狂し、奥田には一瞥もくれなかった。その後、ケガもあり奥田はしばらくの間、試合から遠ざかった。

■奥田の驚くべき決断
PICT0098.JPGそんな中、奥田と親しいある人物から連絡があった。その内容は「奥田が最近おかしい。どうやら宗教にかぶれているようだ」というものだった。驚くことに、すでに奥田は格闘技を辞める覚悟までしているという。にわかには信じがたい話だったが、すぐに僕は説得するためにソウルへと向かった。真武館韓国本部の関係者や奥田選手と親交のある人物とともに僕は奥田と対面した。長いあいだ話をしたが、すでに彼は覚悟を決めていたのだろう。寡黙な奥田が話の中で明かしたのは、以下のようなものだった。

「肉体を鍛え、技術を高めれば人は本当に強くなるのか。本当に強くなればリングで闘う必要はないのではないか」

まるでガンジーの非暴力主義、或いはイエス・キリストの博愛主義のような言葉だった。そして、実際に奥田は周囲の強い反対の中、07年2月の試合を最後に、格闘技界から姿を消した。奥田は自らが開設した真武館空手韓国支部の師範代も辞め、ある女性と結婚してソウル市内の大学で宗教関係者になるための勉強をしているという。「奥田は狂ってしまった」。そう話す関係者を何人も見た。彼を宗教に誘った者、或いは奥田自身を愚かだと批判する声も耳にした。

けれども僕には、どうしても彼が盲目的に宗教に熱狂し、自己を見失ったとは思えなかった。それは、これまでに通常の人間なら我を忘れて激怒しそうな仕打ちを受けても、まるで心を乱さなかった奥田正勝という男を実際に目撃していたからだ。彼は「人間が闘う場所はリングだけではない。リングで闘うことをやめるからと言って、強くなることをやめるわけではない」とも言っていた。

奥田の真意がどこにあるのかはわからない。ただ、強さの意味を真摯に問い続け、その強さを深く求めた結果、彼はリングで闘うことに以上の意味を見つけ出したのではないだろうか。彼の言葉を信じるとすれば、奥田正勝という男はまだ闘い続けているのだろうし、自分の闘うべき新たなステージを見つけて、いまも自分を磨き続けているに違いない。第三者の勝手な思いだが、そうであってほしいと思う。少なくとも僕の知る奥田正勝は、試合がないからと言って訓練を怠るような人間ではなく、常に強くなることを志す武道家だった。

リング上で闘うことの意味も、リングを降りる理由も、人それぞれだ。もう二度と奥田はリングに上がらないかもしれない。もちろん奥田本人は大マジメに違いないが、プロ格闘家の最期としては突拍子もないものであることも事実だ。どのような印象を抱くかは人それぞれだが、どうあれ僕は最後までどこか浮世離れした光を放っていた格闘家・奥田正勝をずっと忘れないでいるだろう。
 

「スコット・コーカーは韓国系アメリカ人」というネタを見つけた『MFIGHT』。今度はアメリカMMA界の有名マネージャーであるケン・パビアに話を聞いて、韓国人がストライクフォースに出場できるか聞いている。

※※※※※以下MFIGHTから引用※※※※※※

――まずは自己紹介をお願いします。
パビア 私は“MMAエージェント”という総合格闘技エージェンシーを運営しているケン・パビアという。この業界で仕事をする以前は、長いあいだベースボールやアイスホッケーなどの選手のマネージメントをしていたので、プロスポーツのベテランエージェントと言えるだろう。MMAエージェントには50人以上のファイターが登録されていて、我々は彼らに最もよい機会を与えるために最善を尽くしている。

――現在、韓国では格闘技のマネージャーを扱ったドラマが放映されている。実際に格闘技家のマネージャーとしての日常とはどういったものか? 
パビア 2008年には8つの国の35の都市で開催されたイベントに選手を送り込んだ。今年はすでに昨年のその数字を超えている。他のスポーツと違って、MMAでは外国での試合も多いし、世界のあらゆる場所で人に会わなければならない。だが、選手たちの夢が叶って、世界的にこのスポーツのマーケットが拡大していくのを見ると嬉しくなるし、この仕事をやっていてよかったと思うね。ただ、選手がリングに上がるまでに言葉では言い尽くせない努力が必要となる。

――マネージメントをしてきて、最も記憶に残る試合や選手はなんですか? 
パビア それは難しいよ。親が何人もいる子どもの中で誰が一番かわいいかを聞くようなものだ(笑)。そんな中でも、とても印象的だった試合はいくつかあるがね。
たとえば、『UFN9』でジャスティン・マッコーリーがアントニー・ハードンクに勝った試合だ。私は長いあいだ、ジャスティンがティト・オーティスやリコ・ロドリゲスのスパーリングパートナーをしてきていたのを見ていたからね。ジャスティンとはずっと『いつかはチャンスをつかむ日がくる』と話してきたからね。あの試合で、彼はずっと願っていたチャンスをついに手にしたし、ずっと彼のそばで見守ってきた自分も本当に涙が出るほど嬉しかったんだ。それ以外では、フィル・バローニがPRIDEで何度もKO勝ちしたときのことはよく覚えているね。最近では、ブレット・ロジャースがアルロフスキーをKOさせた試合が印象深かった。

――近い将来、韓国人選手がUFCやアメリカのMMAイベントで多く観られるでしょうか? 
パビア もうキム・ドンヒョン、デニス・カーン、アキヤマらがいい活躍を見せているじゃないか。すでに彼らはアメリカでも優れた技術を持った選手として注目されている。彼らがこれからもいい結果を残せば、またストライクフォースやベラトールFCといった団体でも、韓国人ファイターがいい結果も出せると思う。韓国人選手との契約や韓国マーケットへの進出は、とてもエキサイティングなことだよ。多くの韓国人ファイターが世界のさまざまな舞台に進出できるように努力しているよ。

――契約する選手は誰がいますか?
パビア マルティン・カンプマン、アンソニー・ジョンソン、フィル・バローニ、プレット・ロジャース、ジェームズ・トンプソン、ザビエル・フォウパ・ポカム、ジョナサン・グーレーといった選手がいるよ。

――ストライクフォースのCEOスコット・コーカーは韓国系アメリカ人だが、韓国の選手がストライクフォースに進出するチャンスはありますか? 
パビア スコットとは韓国人ファイターの招聘だけでなく、チャンスがあれば韓国でも大会を開催したいという話をしたこともある。もちろん、実現させるためには韓国から大きな助けが必要だが、努力しているところだよ。スコットについては、彼の母が韓国人で、彼自身も韓国で生まれてしばらくのあいだ住んでいたと聞いている。また韓国系であるという事実を誇りにしているようだ。

――では、次のキーワードに短くコメントしてください。ヒョードルについてどう思うか? 
パビア MMAが誕生してから登場した選手の中で、最高のファイターだね。

――ダナ・ホワイトは? 
パビア 自信溢れるパイオニア。

――ティト・オーティス。
パビア 自分自身のマーケティングを徹底する選手。興行保証の小切手。

――秋山成勲。
パビア 才能があって成功を手にした選手。

――UFC。
パビア ほとんどのファイターの目標となる舞台。

――韓国のMMAファンに一言。
パビア 韓国マーケットに進出するチャンスが近づいていることは喜ばしいことだ。韓国には潜在的に多くのファンや選手がいることはわかっている。早く韓国人選手がアメリカや海外に進出する姿が見られればいいと思う。

※※※※※引用終わり※※※※※※

せっかくMMA界有数のエージェントに話を聞いているのに、インタビューの目的は同族である(と韓国人側がみなす)コーカーのコネが期待できるかどうかといったものなのが残念。結局、パビアからも薄っぺらなリップサービスしか聞き出せていない。どうせならコーカー本人に聞けばいいのに。徹底して“血”にこだわってスポーツを見る韓国らしさが出ているとも言えるが、韓国人が海外で活躍できるかどうかは、コネではなく実力である点に早く気付いてほしい。

韓国の格闘技ニュースサイト『MFIGHT』が在米韓国系エージェントのジョン・ハンという人物にインタビューをしている。このインタビューでは、ストライクフォースのスコット・コーカー氏に韓国人の血が流れているという、あまり知られていない情報もあるので、以下に紹介する。

※※※※引用開始※※※※※

――まずは自己紹介をお願いします。
ハン 名前はジョン・ハン(JOHN HAN)。米国カリフォルニア在住でMMA関連のエージェントをしている。現在は“MMAエージェント”という会社でケン パビア(フィル・バローニ、ブレット・ロジャースらのマネジャー)と協力しながら、韓国やアジア選手の招聘業務、また選手のスポンサー問題やMMA団体との交渉についても担当している。MMA以外の仕事もしているが、現在は格闘技の仕事に多くの時間を割いている。

――エージェントとしては、どんな仕事をしていますか?
ハン 韓国の選手がアメリカに進出する手助けをしている。正確に言うと、アメリカを含め、世界中で活動しているさまざまな団体に、韓国選手を紹介する仕事をしている。現在、韓国にいるエージェントの紹介でコリアン・トップチーム(KTT)のハ・ドンジン監督と知り合い、KTTの所属選手やいくつかのチームの選手のために動いている。

――アメリカの市場において韓国人選手や韓国のMMAに対する認識はどのようなものですか?
ハン 何人かの韓国人がメジャーイベントに進出したことで注目は集まりつつあるが、中小団体が韓国内にないこともあり、それ以外の選手についてはほとんど知られていないのが現状だ。アメリカでもプロモーターと話をすると、「強い選手がいそうだが、試合ができずにいる選手たちが多く、まだ成長を見守る必要がある」といった話がよく出る。

――UFCで、キム・ドンヒョン、秋山成勲、デニス・カーンなどの韓国系ファイターが活躍しているが、アメリカにおける彼らの評価は?
ハン アメリカではキム・ドンヒョンが最も有名だ。“スタンガン”というキャッチフレーズで多くの人々が「彼の技術は非常に素晴らしい」と評価している。ただ、もっと大きな試合を行なうためには、もっとたくさん試合に勝つか、派手なKOを見せなければならないだろう。UFCで最高の地位に立とうとするなら、勝ち星以外にも“ほかの何か”を見せることが必要だ。外国人選手であるなら、なおさらだ。韓国で作られた秋山成勲とデニス・カーンの因縁やストーリーといったものは、アメリカ、とくにUFCでは何の役にも立たない。秋山はUFCでまだ1試合しただけなので、どうとも評価することはできないが、相手のアラン・ベルチャーはUFCのトップランカーではなかったので、今後はもっといい試合を見せなければならないだろう。デニス・カーンは前回の試合で、ある程度自信を取り戻したようなので、これからもチャンスはあるだろう。

――アメリカでMMAはスポーツ産業全体の中では、どの程度の比重で発展しているのでしょうか? 
ハン もちろんメジャースポーツと比較すれば、まだ足りない部分も多くあるが、MMAは本当に恐ろしい速度で成長しており、無限の可能性を秘めている。ここ数年の内に世界で最も有名なスポーツになる可能性もある。とくに若い年齢層からの反応が熱いし、アマチュア大会や柔術、MMA同好会、ジムなど、時間がたてばたつほど、さまざまな部分で発展していくことが予想されるので、未来は非常に明るいと言えるだろう。

――UFC以外のMMAイベントはどんなものがあるでしょうか? 
ハン ストライクフォース、ベラトールFC、『アフリクション』などがいわゆるメジャーイベントと言えるだろう。ただ、『アフリクション』にはいろいろな不安要素がある(インタビュー時は『アフリクション』崩壊前)。また、すべてをお話するわけにはいかないが、ヨーロッパでも速いスピードでMMAが拡大していて、中にはレベルの高い大会もある。近い将来、ヨーロッパにも大規模なMMAイベントが出てくるのではないかと見ている。

――アメリカのMMA主催者の中で、韓国進出を計画している組織はありますか? 
ハン 現在、ベラトールFCのシーズン2で韓国人選手を起用する話を進めている。選手を招聘する以外にも放映権の交渉など、いろいろと進めるべきことが多いので、それぞれよい結果が得られるよう努力している。多くの方々の関心と応援が必要だ。うまくいけば、それぞれ4階級のトーナメントに韓国人選手が出場できると思う。

――ストライクフォースのスコット・コーカー社長が韓国系と聞きましたが、本当ですか? 
ハン 事実だ。私も最初は驚いた。ハインズ・ワード(NFLのスター選手で母親が韓国人)のように、アメリカ格闘技界において、最も有名な韓国系の人物の一人ということになるかもしれない。韓国系アメリカ人という事実が非常に嬉しかった。お母さんが韓国の方だそうで、コーカー氏自身も生まれてしばらくは韓国で過ごしていたという。ただし韓国語をほとんどできない。記者会見で初めて会ったとき、私が韓国人であることを知って私に韓国語で挨拶してきたことがあったよ。
現在、彼のストライクフォースとも選手のブッキングや韓国進出について意見を交換しているところだ。次に会ったら韓国名があるかどうか聞いてみたいな。

――最後に韓国の格闘技ファンに一言お願いします。
ハン このビジネスを成功させることが一番の目標だが、これからもずっと努力することを約束するし、そうすることでいい結果もお知らせできると思う。韓国の格闘技市場はバブルが弾けてしまったという気もするが、まだまだ熱意や関心を持って協力してくれる方も多いので感謝している。わずかなスター選手だけでなく、多くの選手に関心を持ってマスコミやファンの人が応援してほしい。そうすれば多くの選手が大きく成長できるだろう。韓国にはそういう選手がたくさんいる。負担も大きいのも事実だが、最善をつくして韓国の選手にとっていいチャンスが得られるよう、努力を続けるつもりだ。韓国格闘技界がまた活性化されるのならば、ケン・パビアが率いる50名の選手を韓国の大会に出場させることも可能だ。その他、問い合わせや事業提携などの依頼があれば、
korea@mmaagents.comに問い合わせてほしい。

※※※※引用終了※※※※※

スコット・コーカーに韓国人の血が流れているからって、日本人的には「それがどうした?」という話なのだが、韓国ではこれまでに秋山成勲、デニス・カーンという韓国系のスターファイターが韓国で大人気を博していることから、韓国格闘技界においてはけっこう重要なニュースなのだ。ただし、これまでの活動を見る限り、ストライクフォースが韓国人を大量に起用したり、韓国大会を開催するなどといったことは考えにくいが、少なくとも韓国人的には少し親近感の沸くイベントになるだろう。

それよりも韓国では少し前にベラトールFCのビヨン・レブニーCOOがチーム・フォースのハン・スーファン、キム・デウォン、そしてKTTのソ・ドゥウォンらの名前を挙げて、ベラトールFCのシーズン2に参戦する可能性があると言っていたが、これでブッキングを担っていた人物がジョン・ハン氏であることが判明した。最近、日本であまり姿の見られなくなったKTTやチーム・フォース勢が、いよいよアメリカに進出する覚悟を決めたようだ。

jaehee.jpgK-1 MAXでの山本“KID”徳郁のKO負けは凄まじいインパクトがあった。当日、僕はコメントブースでこの試合を観ていたが、僕だけでなく観ている関係者や記者すべてが騒然としてKIDのKO負けにド肝を抜かれていた。

KIDをKOしたチョン・ジェヒは、勢いのあるKIDのパンチを冷静にスウェーで見切って、カウンターでアッパーを組み込んだコンビネーションを当てていたように、非凡なセンスの持ち主であることはわかった。しかし、いったいどれほどの実力者なのかについては、情報が少なくわかりづらいという点もあるので、MAX開催前に韓国の『MFIGHT』が掲載していたチョン・ジェヒのインタビューを紹介したい。

kamipro.comでの韓国格闘技情報で紹介することも考えたが、K-1 MAXの前は『UFC100』などの注目大会が多かったこともあり、残念ながらその掲載を見送っていた。ここであらためてその記事を紹介したい。インタビューは7月8日に掲載されたもの。

※※※※※以下、『MFIGHT』からのインタビュー全文※※※※※※

――タイではどのように練習してきたのか? 
ジェヒ プーケットで8ヵ月、バンコクで3ヵ月、合わせて約11ヵ月練習していた。できれば韓国で練習したいが、どうしても環境がよくないので本場でレーニングしたと思った。とりあえず3年間の計画だったが、とりあえず1年やってみて、ムエタイとK-1はちょっと違うなと感じている。今回の試合が終わったら、トレーニング場所を日本に移すかもしれない。

――ニックネームは“闘鶏”になっているが、理由は? 
ジェヒ 自分は背が低いのでインファイトをするしかないし、性格的にも闘うときに、相手の顔色を見て闘うのが好きではないから。ただ、練習をずっと続けているとあまり緊張もしなくなったし、ずいぶん余裕もできた。以前は何も考えずに闘っていたが、いまは相手の弱点を見つけて冷静に試合をしようとしている。

――ムエタイとK-1はスタイル的に違いがあるのでは? 
ジェヒ まず基本的なリズムはムエタイのスタイルに行くだろう。1ラウンドのゴングが鳴れば何度か蹴ってみて相手を把握するつもりだ。だが、様子を見るのは30秒だけだ。そのあとは新人のときのようにインファイトに徹するだろう。3ラウンドは最初から考えないでいる。 2ラウンド中に勝負の賭けに出るだろう。KIDが倒れるか、自分が倒れるか、二人のうち一人はマットに寝ているだろう。日本の記者がインタビューしにきて「KIDのパンチは本当に強い」と言っていたが、自分にはよくわからない。自分も簡単にKOできる選手ではないし、全然怖くない。真っ向勝負をする。

――KIDはどんな選手だと考えるか? 
ジェヒ じつは彼は自分の好きな選手だった。兵役で軍隊にいるときからKIDを観ていたが、常にKOを狙うスタイルなので好きだった。もちろん硬そうで筋肉質な身体も好きだ。ただ、打撃の技術はトップクラスであるとは思わない。打撃も練習した方法によってできたものではなく、変則的で本能的なスタイルだと思う。本能を重視する点は自分と似ている。違いがあるとするならば、KIDはエリートアスリートだったが、自分はジムでトレーニングを積んだという点だろう。怖くはないし、むしろ試合をするのが楽しみだ。

――KIDは日本の格闘技界で最高のスター選手だ。韓国の選手として、このようなチャンスはめったにないが、今回の試合はあなたにとってどんな意味があるのか?
ジェヒ 簡単に言うとLOTTO(ギャンブル)のようなものだ。KIDは日本の英雄だし、誰も自分が勝つとは思っていないだろう。彼は強い選手だから。勝てば大当たりだが、負ければただ2000ウォン(約150円)を失なうだけだ。俺に失なうものは何もない。ギャンブルで勝つかどうかは自分の能力次第だ。韓国の60キロ級に、こんな選手がいるということを日本の観衆の目に焼き付けたい。

――KIDをどのように分析しているか? 
ジェヒ とりあえずスピードがいい。パンチは一発もらえばダウンしてしまうかもしれないが、俺もバカではないので簡単にはもらわない。当てられるものなら当ててみろ。当てられない自信はある。自分は簡単にKOされる選手ではない。

――今回の試合で準備したことは?
ジェヒ 特別な作戦はない。もともと左の蹴りが自分の中心的な武器だが、今回は相手がサウスポーなので右足の蹴りをたくさん使うことになると思う。KIDは自分よりも体格がいいので、タイでは大きな選手を相手にスパーリングをたくさんしてきた。ダウンもさせられたし、目にもアザができた。相手の動きにどう反応するかという作戦はある。だが作戦は作戦であって、リングの上では本能的に動くつもりだ。

――日本のK-1本戦は初めてだが、緊張すると思うか? 
ジェヒ 自分ではまったく緊張しないと思っているが、ほかの人は自分が緊張すると思っているようだ。タイのラジャダムナンスタジアムで試合をしたことがあるが、最初はタイの観客の熱気とその施設に驚いて緊張した。だが慣れてからはよくなった。日本でもある程度は緊張しそうだが、それは自分自身で解決しなければならない問題だ。

――日本での試合なので、一方的な応援とKIDに対するホームアドバンテージがある可能性もあるが、それは気にするか? 
ジェヒ 少し前にMAキックに出場したことがある。自分が登場したときは冷たい雰囲気だったが、相手の選手が入場すると応援する声が大きくなった。それは仕方のないことだ。当時は少し頭にきたが、開始のゴングがカーンと鳴れば観衆もよく見えないし、今回も試合に集中するだけだ。

――実際、韓国内のファンの一部でも、今回の試合ではKIDが勝つと言う人もいる。それについてはどう思うか? 
ジェヒ よくわからない。ネットを見ていると、自分が負けそうな気になる。それから「冥福を祈る」という書き込みも見た。だがそれほど気にはしていない。自分は常に挑戦者の立場にいる。常に挑戦しようとしているが、自分のほうが有利だとは思わない。今回の試合は絶対につまらないものにしたくない。おそらく倒れているのはKIDのほうだろう。前にも言ったが、今回の試合はチャンスでもあり、危機でもある。俺はこのチャンスをモノにしなければならない。試合で日本に二度行ったが、一度目は5ラウンドのあいだずっとキックを食らって車椅子に乗って帰国した。二回目の試合では5ラウンドで判定負けをしたあと血尿が出た。日本での試合はダウンを奪えなければ勝てないので序盤から強く前に出なければならない。当時の試合でも身体が限界に至ったが、我慢したら心臓がバクバクしたのを感じた。これまで日本ではよくない思い出が多いが、今回はいい結果が出ることを願っている。

――今回の試合は別にして、闘いたい選手はいるか? 
ジェヒ 本当に尊敬している選手だが、パク・ビョンギュ館長(日本では朴龍のリングネーム)、そして日本の石井宏樹と闘ってみたい。2人とも個人的に好きな選手だ。もちろん、いまは自分の実力が彼らのレベルにまでは到達していないことは知っているが、チャンスがくればまたタイに飛んで練習を積んで闘いたい。最近、自分の名前を出してくれたキム・ドンヒョン(UFCファイターとは同名異人。現在は『武神』で活躍中)ともチャンスがあればムエタイの恐ろしさを見せてやりたい。過去に自分に勝ったことのあるチョン・ビョンとも闘いたい。あの試合が終わってから彼に勝つために一生懸命練習した。

――最後に、あなたが負けると言っている人々に一言あればどうぞ。
ジェヒ 多くの人々が俺が負けると考えているのは自分も知っている。彼らが願うこと、そして日本人が何を望んでいるか、よく知っている。俺はその多くの人に堂々と反抗するだろう。妥協はしない。このチャンスを掴むために5年もトレーニングしてきたんだ。自分のすべてをこの試合に注ぎこむ。この試合は立ち技の試合であり、自分のプライドがかかっているので絶対に負けることはできない。決してつまらない試合はしない。

※※※※※引用終わり※※※※※※

印象として、キックボクシングをするうえで決して環境がいいとは言えない韓国にあって、チョン・ジェヒは強くなるため、成功するために、わずかな可能性にかけて地道に本場のタイでムエタイに取り組み続けた男だった。自分の置かれた立場をよくわかっていて、驕りも怖気づいてもいなかった様子。タイからコーチを呼んでトレーニングしたKIDとは違って、1年間タイで技術を磨いてきたハングリーさが実を結んだ結果となったようだ。

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