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まあ、寒さ対策はおいおいするとして、まずはストックホルムの市内を探索したことについて。

現在の宿はストックホルム東の市街地カーラプランというところ。場所的にはスウェーデン国立博物館の近くで、ここからまっすぐ南に下って博物館や美術館の多い、ユールゴーデン島を散策し、また元のカールスプランに戻って海岸線の道を西に歩いて家に戻るというコースを散策した。時間にして2時間ぐらい。でも、1時間ぐらいで手の感覚がおかしくなるぐらい寒くなった。
まずはユールゴールデン島の写真。島全体が自然公園のようになってるようで、もう少し温かかったら、東に続く島全体を歩いてみたいと思ったけど、ちょっと無理。鼻水ズルズル手はガチガチだった。

寒さに耐えられなくなったので、対岸のカールスプンに戻り、海沿いの道を散歩した。沢山の船が泊まっていたけど、どれもセンスはいいし、中で皆生活してるみたいで、素敵だった。古い建物を完全に残す旧市街地的な街もそうだけど、船や建物、看板とかのデザインがどれも洒落てて格好良かった。「すげぇよストックホルム」と唸りつつの散歩になったのだった。

北京からストックまでの9時間半は結構つらかった。身動きできない中、機内食を三食続けて食べさせられると、なんだかブロイラーにでもなったような気になる。ちなみにプロウラーはIRON MAIDENの1stの名曲。関係ないか。機内では映画も見れるのだが、中国語と英語の字幕なのでイヤホンは付けず『レッドクリフ2』を流し見する。前の中国人の無法急角度リクライニングぶりと横の北欧老人とのヒジとり勝負に果敢に応じながら、読書、
DS、仮眠、iPhoneで音楽、をローテーションで回して時間をつぶす。長時間のフライトだが、気圧が高いせいかあまりぐっすり寝るような感じにはならなかった。周囲の人もグースカ寝てる人はあまりいない。9時間半のフライトで機内食は2度。格安航空券だし、もともと期待してないのだが、出された鳥の肉団子ライスやサンドイッチからは、まったくやる気は感じられない。もう少し頑張れよ、エアーチャイナ。
長時間フライトに苦しみつつストックホルムにようやく到着。ストックホルムのアーランダ空港の標識や建物の色使いなどは、自分がイメージしてるスウェーデンらしさとかなり合致していてテンションあがる。色とかフォントの使い方とかがシンプルなのに、ポップさとスタイリッシュさがある。入管では提出する書類は一切なく、口頭で旅の目的や滞在場所などを簡単な質問を受けた。荷物を預けていなかったこともあって着陸から15分程度で入館を通過。スウェーデンは人口900万人ぐらいの国なので、首都空港なのに人はそんなに多くないことはあるにしてもかなり事務的な対応は迅速で快適なものだった。
日本とは8時間の時差があるので、まだ夕方の5時前だが、そこはさすがに冬の北欧国家。すでに真っ暗だ。空港で迎えに来てくれた人に連れられ、空港から市内までの電車と地下鉄を乗り継いで宿に到着。すでに活動時間が24時間以上経過しているので、近くのスーパーの様子をうかがってから早々に就寝することにした。ネムスネムス。
北京行きの飛行機は左右3席シートずつの6席なので、そんなに大きな飛行機じゃなかった。自分の隣には客は来なかったので北京までは快適に過ごせた。この日は快適だったので、滅多に座らない窓際席の特権を存分に楽しませてもらった。普通、キャビンアテンダントって年齢制限あるよね? しかし、エアーチャイナ(中国国際航空)には、お局さんみたいなおばちゃんがいてなかなかの迫力。そんなおばさんに「ヌードルかライスか」と聞かれたので、ライスと答える。ご飯の上にはエビと片栗粉で閉じた豚肉? のようなものがかけられていた。まあ、大ざっぱな機内食だな。隣の日本人青年はヌードルを食べていたが、焼きそばみたいな感じ。そっちでもよかったかも。
機内ではあまり読書する気にならず、行き先のガイドブックを取り出してパラ見したり、持ってきたDSでドラクエ5などをやるのだが、どうにもつまらない。出だしだけやりつつ「フローラよりも、ビアンカちゃんで決まりだろ」とか吐き捨てて、小一時間ぐらいウトウト。気が付いたら北京空港間近だった。北京空港は無駄に広い国土を利用しているので滑走路がかなり長い。そのため着陸も余裕を持ってスムーズに成功。「パイロットやるじゃん」と思ったが、機内から出るときに見たパイロットは、ティアドロップのサングラスをかけたチンピラみたいな兄ちゃんだった。
時計を見ると乗り換えに30分ぐらいしかないので焦ったが、何のことはない。時差が1時間あることを忘れていただけだった。北京は前日に雪が降ったとのことで、外は気温2度。雪が薄く積もっていた。空港ならフリーのWiFiぐらい利用できるだろうと思っていたが、フリーの有料電波はなし。出発時間も30分遅れになるし、「こういう時にツイッターができればいいのに」と思いつつ、パソコンを取り出して時間を潰す。それにしても、機内や空港にいる中国人の声はデカイ。飛行機の搭乗待ちスペースで酒盛りしつつ、ガハハと笑う豪気なオヤジたち。幸せそうだな、オイ。まあ、空港に来れるだけ富裕層なんだろうけど、そうは見えない中国の罠。最近、韓国の空港ではあまりキムチ臭がしなくなったが、中国の空港は濃厚な中華料理屋の臭いがするのでつい懐かしくなる。北京で一泊できれば少しは楽しいのになあ。
チケットは中国国際航空をチョイス。10月後半に出発を予定していたが、安くて人気のスカンジナビア航空は早い段階から11月10日前後までソールドアウトだったので、28日間FIXの中国国際航空のチケットを確保。フライトは成田→北京→ストックホルムとなった。航空券の料金は51000円で、税金やら何やらがついて最終的には72400円。北欧のチケットとしては安い方だろう。フライト時間は成田→北京4時間、北京→ストック9時間40分。うへぇ、合計13時間超か・・・・。ストック日本は8時間の時差があるので、これだけ乗ってもストックには出発した当日の夕方に着くことになる。
機内で何をするか悩み中。無難に読書で済まそうと思うのだが、『三国志』(吉川英治)全八巻では少し飽きそうだし、翻訳の仕事をしても、せっかくの旅行気分が台無しになりそう。一応、カバンにDSを忍ばせ、iPhoneには未読の『FAIRY TAIL』16巻分を同期しておくことにする。
iPhoneのバッテリー変わりに使っていた韓国製のミニパソコンのアダプターが見当たらないため、持っていくことを断念したのは計算外の事態だが、荷物がかなり重くなっているので、かえってよかったかもしれない。
バッテリーが早く切れるiPhoneはノートパソコンで充電するかな。
出発は成田発午前9時なので、かなり早起きしないとなー。
10月26日は、韓国の大木金太郎(キム・イル)の命日である。毎年、大木金太郎の後継者であるイ・ワンピョがこの日に大木金太郎の追悼記念興行を開催しているが、今年同じ日に三周忌記念興行を行なうようだ。
イ・ワンピョ(李王杓)――。日本では昨年11月、53歳にしてボブ・サップと試合をした人物として名前が知れているかもしれない。プロレスにおいては国際プロレスや全日本プロレスに参戦歴はあるものの、韓国においてはスーパー・ストロング・マシン2号の中の人であった力抜山に実績で引けを取るものの、晩年まで大木金太郎との関係を密にしていたことから、大木から直々に“後継者”に任命され、韓国のプロレス界の中心人物となった男である。
しかし、現在の韓国格闘技界&プロレス界におけるイ・ワンピョの評判はあまり芳しいものではない。それは“大木金太郎”の名前を使って、彼の死後も長々と商売していることや、昨年の“MMA”、あるいは“リアルファイト”と銘打っておきながらボブ・サップとれっきとしたプロレスマッチをぬけぬけとやり通したことなどが原因に挙げられる。もちろん団体関係者の追悼大会を行なうこと自体は悪いことではないが、彼の主宰する韓国プロレス連盟は年に2、3度しか大会を開催しないにもかかわらず、毎年大木金太郎の追悼興行なっているのだから「他人のふんどしで相撲を取る」といわれても仕方のない状況だ。最近では、自らの組織を堂々と「大韓総合格闘技協会」に改称し、その総裁を自称しているという。
そういった、現在・過去のイ・ワンピョの胡散臭さはここでは置くとして、今年の10月26日の大木金太郎三周忌興行に向けてメディアに登場し、大木金太郎との思い出話を話したりしている。現存する関係者の中で、晩年に至るまで大木金太郎と密接な関係を築き続けてきた人物の筆頭がイ・ワンピョであることは間違いなく、師匠に対する孝の部分は評価されてしかるべきでる。
韓国でもそうした視点から、最近『スポーツ朝鮮』がイ・ワンピョに取材し、生前の大木金太郎との思い出話を長文にわたって掲載している。当時のイ・ワンピョの視点を通したものではあるが、韓国における大木金太郎の姿を知る上で興味深い情報なので、以下に紹介する。韓国人が大木金太郎を語る場合は「キム・イル」の名称を使用するので、翻訳の際にはそのまま「キム・イル」と訳した。
※※※※※以下、『スポーツ朝鮮』から翻訳転載※※※※※
09年9月28日付『スポーツ朝鮮』紙掲載記事「忘れられない瞬間、イ・ワンピョが語る“大木金太郎”との思い出」より
“頭突き王”キム・イル(大木金太郎)の後継者、イ・ワンピョ大韓総合格闘技協会総裁は近頃忙しい。故キム・イル先生の3周忌追悼興行の準備のためである。10月26日、オリンピック第2競技場にて、“キム・イル記念館”建設の広報も兼ねて大会を開催する。いつの間にか韓国プロレスの象徴となっていた彼は、生涯キム・イルとともにいた。師匠が世を去る頃には彼の手足となって生き、彼の人生はいつもキム・イルで満たされていた。最近でも口さえ開けば「大木金太郎先生」のことが出てくる。
■英雄キム・イルとの出会い
「1975年だから19歳の時です。キム・イル体育館でプロレスラーの第1期生を募集するという報を耳にしました。当時のキム・イルは、パク・チョンヒ(朴正煕)大統領に寵愛された国民的英雄でした。先生の顔を見るだけでも光栄な時代でした。幼い頃からテレビでキム・イル先生を見て、あんな英雄になりたいと決心していたので、テストを受けるのもためらいませんでした。自分は身体も大きい方だったし、何より熱い血がたぎっていた年頃でもありました。テストを受けに来た人は100人以上いて、韓国中の力自慢が集まっていました。ただ、資格条件は身長180cm以上、体重80kg以上だったので、自分は少し足りませんでした。身長は187cmでしたが、体重が少し足りなかったのです。けれどもダメもとでテストを受けました。プッシュアップ50回、ブリッジ30回、スクワット300回……。英雄が見守る中、全員が全力を出しました。受かるとは思いもしませんでした。私は条件を満たしていませんでしたから。けれども直にキム・イル先生を見れたので受からなくても悔いはありませんでした。ところが、後になって合格通知が届いたんです。信じられませんでした。自分がキム・イル先生の弟子になれるなんて……。月日が経ってから先生に聞いたことがあります。『私より力が強くて身体も大きい人も多かったのに、どうして体重の足りない自分を選んだんですか?』と。師匠の答えは『目が生きていたからさ』とシンプルに答えました。この時の合格者は4人でした」
■幸福の終わり、苦労の始まり
「ですが、世界のすべてを手にしたような気持ちは一日しか続きませんでした。翌日、光化門(クァンファムン)文化体育館に行きました。希望に満たされていた私の胸は、体育館のドアを開けた瞬間に音を立てて崩れ落ちました。そこには15人の大男が仁王立ちしていて、まず『スクワット1000回』と命令されました。100回もすれば足がガクガクになるスクワットを休まず1000回しろというのです。死ぬ気でなければ発作を起こしていたでしょう。何百回かしたところで、ふくらはぎと太ももがガチガチに固まって言うことを聞かなくなりました。私は『これは新入りイジメに違いない』と思いました。しかし、“死のスクワット1000回”が毎日の準備運動に過ぎないことを知ったのは、翌日のことでした。スパーリングはさらに過酷でした。15人の先輩が順々にリングに上がり、10分ずつ私をグチャグチャにして降りて行くんです。どんな技をかけてもビクともしない先輩と150分間ずっと取っ組み合いをすることを考えてみて下さい。まったく手加減はされませんでした。そしてこのスパーリングには“まいった”は許されませんでした。死んでも150分をやりきらないと終わらないのです。もちろん、少し行き過ぎた場面があれば、見守っていた先生が止める時もありましたが。ただ、ありったけの力を絞り出して練習についていくと、少しずつ技術が身についてきて、2年で身長も190cm、体重も100kgを超えるようになっていました」
■月尾島での焼酎パーティ
「キム・イル先生の門下生になって1年ほど経った頃、道場生全員が仁川(インチョン)の月尾島(ウォルミド)に集まっての宴会がありました。土砂降りの雨の中、海辺の刺身屋に着いたのが午前11時。そこから焼酎を飲み始めました。先輩は少しずつ飲んでいましたが、新入りはグラスで飲まなければなりませんでした。キム・イル先生もよく焼酎を飲んでいましたよ。最初は一緒に飲んでいましたが、後には席を外すことが多くなりました。お酒はやめたんでしょうね。12時が過ぎると、一人、二人と倒れていき、3時になると起きている者は三人しかいませんでした。結局、焼酎は自分一人で26本も飲んでいました。無我夢中でしたよ。4時頃なって先生が『出るぞ』と言って、みんなでタクシーに乗ってソウルへ向かいました。ところが、タクシー中で揉め事が起きました。突然場所を変えたことで、自分の酔いが回ったのが原因でした。前の席に座っていた先輩が、後ろを向いて『ワンピョ、大丈夫か』と聞いてきました。『はい』と言えば済んだのに、今でもなぜそうしたかわかりませんが、振り返った先輩の顔を平手で強く叩きながら「気にすんな、ボケ」と言ってしまったんです。当時、先輩のレスラーほど怖い存在はなく、当時は自分が喫茶店でお茶を飲んでいても、先輩が姿を見せれば倉庫の中に隠れたほどでした。酔って頭がおかしくなっていたんでしょうね(笑)。ソウルまでどうやって帰ってきたのか、今でもサッパリ思い出せません翌日も午前6時から練習が始まりました。すると前述の先輩が前に出てきて、大声で叫びました。『イ・ワンピョ、前に出ろ!』。そして緊張する私に『スクワット3000回!』と叫ぶのです。周囲には野球バットを持った先輩たちが取り囲んでいました。スクワット3000回こなすのに3時間かかりました。何日間かは足が使えませんでした」
■師匠をだます
「ある日、先生が私を呼んで『ワンピョ、運転免許証はあるか?』と聞くのです。『ありません』と答えると、30万ウォンをポンと渡して『取ってこい』とおっしゃいました。当時の30万ウォンは、もの凄い大金でした。雲の上の存在である先生からもらったお金ですから、すぐに自動車学校に行くべきでした。ところがなぜか同期たちを呼び集めて、私はどんちゃん騒ぎをし、お酒や肉代として使い果たしてしまいました。それから二ヵ月ぐらい過ぎた頃、先生が『取ったか』と尋ねるんですよ。ビックリしてうっかり『取りました』と言ってしまいました。すると『仁川に行くぞ』と言うんです。どうする事も出来ず、無免許なのに冷や汗と涙をボロボロ流しながら行きましたよ。下手なりに運転の仕方は知っていましたが、乗せているのが大切な先生なのでビクビクしましたよ。一歩間違えば国民的英雄をあの世の中に送る事件を起こすハメになるんですから。それで仁川から帰ってきたらすぐに自動車学校に通い始めました(笑)。先生は後でその無免許運転のことを知ったようですが、表情には出しませんでした」
■天下のキム・イルも呆れた?
「釜山の海雲台(ヘウンデ)で11人が合宿をしている時でした。地元の有志が訪ねてきて『キム・イル先生を招待したい』と言って焼肉屋で食事をすることになりました。“海雲台カルビ”は他の地域のカルビと違って手のひらぐらいの大きさでした。11人のレスラーが一斉にカルビにかぶりつく様はなかなか見ものでしたよ。自分も我を忘れて食べました。ちょうどお腹も空いていたところでしたし。骨が山積みになるほどになって、先生が咳払いをして『お前たち、少し考えて食べなさい』と言いました。いくらプロレスラーであってもむやみやたらに食いすぎるのが気に入らなかったようです。その時カルビは合計で450本以上も食べました。宿舎に帰っても食事が用意されていたので、先生が『これも食っとけ』と言うので、もちろんみんなで平らげました。当時、キム・イル軍団に食事をおごると豪語した人は、みな酷い目に遭いました。いつもレスラーは一人で肉を20人前は食べますからね」
■先生は……
「先生はいつも忍耐の“忍”を強調しました。サインもいつも“忍”の字を書きました。忍耐できない者はレスラーになれないということでしょう。先生はリングでは鬼でしたが、リング外では非常に慈しみ深い方で、いつも弟子たちを暖かく見守ってくれました。おしゃれにも気を使う人で、色を合わせていつも服を着るなど、いつも清楚な身なりをしていました。後輩に対するしつけもしっかりしていて、いつも『礼儀正しく行動するように』と言っていました。歳下の人に対してもむげにはしません。いつ頃からか、私に対しても「イ館長、このようにして下さい」と言うので、「先生、そんなに丁寧に言わなくても……」と言いましたが、頷かず亡くなる時まで私に敬語を使いました。
ファイターとしての先生については、説明する必要もないでしょう。韓国でよりも、日本でのほうが人気がありました。怪力で有名で、先生のヘッドロックをかけられると、アゴの骨が砕けそうでした。70年代の末に『高弟』という映画の撮影がありましたが、先生に頭突きを食らって倒れる役者がいましたが、実際に先生の頭突きを受けて、本当に死にそうになる事件もありました。先生が頭突きをまともにやってしまったので、その役者は深刻な痛みで一週間も起きることができませんでした。先生は体格も良かったですし、スポーツは何をやらせてもが上手でした。ですから女性からの人気も凄いものでした。日本に行けば会場やホテル周辺に女子高生たちが置いて行った花束や贈り物が山ほどありましたし、試合の最中には先生の名前を連呼する人が大勢いました」
■朴正煕元大統領との絆
「これは後に聞いた話ですが、60年代の後半のことです。ある日、パク・チョンヒ(朴正煕)元大統領のパク・ジョンギュ秘書室長が訪ねてきました。そして先生を車に乗せて、漢江(ハンガン)から現在の狎鴎亭洞(アックジョンドン)の方を指さして『近いうちにあの辺に橋を造るから、向い側に土地を買っておきなさい』と耳打ちをしたそうです。先生は『5万坪買うお金はあるが、10万坪買いたいから日本行ってもう少し稼いでくる』と言いました。ところが、その年の夏に深刻な日照りで韓国中が大騷ぎになると、先生は持っていたお金をポンとはたいて、揚水機300台を買って政府に寄贈されました。パク大統領が先生を愛する理由が分かりましたよ。
晩年は、ソウルの病院で長く過ごしましたが、訪ねて行くたびに病院の裏の焼肉屋に連れて行ってくれました。そして『イ館長、焼酎1本飲ませて下さい』と言って、一杯だけ盃をお受けになりました。私への配慮からでした。10月26日は、先生の3周忌ですが、『イ館長だけ信じる。よろしくお願いする』と言ってこの世を去りました。最後までプロレスの中興を願っていました。歯を食いしばって再度チャレンジしないといけませんね」
思うところがあって7年間、韓国に住みながら、さまざまなかたちで自分が見聞きしてきた韓国の格闘家、あるいは韓国に関係のある格闘家の素顔やエピソードを紹介するようなコラムをここで不定期に書くことにしました。韓国という国には破天荒で、突拍子もなく、愛すべきバカがたくさん存在します。もちろん格闘技界にも珍事件・迷走話、ズンドコ話が満載(つい最近も経験したばかり)。そんな人間味満載の韓国人格闘家を紹介するシリーズしたいと思います。
■韓国格闘家列伝 奥田正勝編
■奥田正勝はどこへ消えたのか?
韓国に住んでいた頃、ある日本人格闘家に出会った。
その男の名は奥田正勝。実際に会った奥田は寡黙で言い訳というものをしない僕のイメージするサムライに最も近い男だった。その誠実な人間性から、韓国の総合格闘技草創期には地元の韓国人を凌ぐ人気を誇った。当時、奥田の指導する真武館とは姉妹ジムの関係にあったコリアン・トップチームのメンバーたちをして「この世で最も尊敬する選手は奥田だ。アイツは漢だ」と言わしめた不思議な魅力の持ち主である。
しかし奥田は、07年2月にアメリカで行なわれたWBF(World Best Fighter)で判定負けして以来、忽然と姿を消した。奥田正勝のその後について、克明に報じた記事はないので、彼への思いを整理する意味でもここで紹介しようと思う。
■アマチュア格闘家から韓国へ
奥田正勝は90年代初頭に旗揚げしたリングス、パンクラスといった新興総合格闘技を見て、感銘を受け、高校生の時に九州を拠点とする真武館空手に入門する。選んだ理由は真武館が空手のスタイルよりもリングスと同じような掌底による顔面攻撃、投げ、関節技、寝技が認められた総合格闘技ルールを採用していたからである。奥田は真武館空手が主宰するオープントーナメント“武人杯”で郷野聡寛、中尾受太郎、今成正和といった外敵を迎え撃ち、96年からは重量級で6連覇、無差別級では98年から3連覇を成し遂げる。さらに奥田はアマ修斗やタイタンファイトなどにも出場して実績を残すなど、アマチュア格闘技界では常に上位に顔を出す常連選手となった。
だが、奥田はプロの格闘家になるつもりはなかった。一般人として仕事を探していた奥田は、地元・福岡で造園業を営んでいた父の知人である韓国人と出会い、誘われるままに01年1月頃から韓国に移り住み、ソウルで会社勤めをするようになる。この時、すでに奥田は格闘家としては引退したつもりでいた。ところが、日本のPRIDEやK-1人気の影響を受けて02年に韓国でスピリットMCが誕生して国内で格闘技熱が高まると、奥田の中に眠っていた格闘家の血が騒ぎ出した。奥田はソウルの語学堂に通いながら、さまざまな韓国の格闘技ジムに出稽古を始めるようになる。この時に出会ったのが、キックボクサーの長谷川永哲であり、総合格闘家のRYOである。
総合格闘技が注目され始めたばかりの韓国において、本格的にトレーニングを積んだ者はほとんどおらず、どこに出稽古に行っても奥田に敵う韓国人はいなかった。「自分にも韓国で教えられるものがある」という感じた奥田は、韓国で真武館空手道場を開くことを決意する。
■韓国で道場を開設、そしてプロデビュー
03年7月、奥田は韓国・ソウル市に真武館空手韓国本部を設立し、その師範代となった。新道場の名を知らしめるため、奥田は03年のパンクラス・ネオブラッドトーナメントでプロデビューを果たす。奥田は一回戦で中台宣にKO勝ちしたものの、決勝では中西裕一に敗れ、準優勝に終わった。奥田はプロ格闘家として活動していくことに少しの手ごたえをつかんだが、肝心の道場生は一向に集まらず、奥田は道場で練習したあと、キックミットを枕にして寝る極貧生活を続けていた。
そんな中で奥田は03年8月、スピリットMCから分派したネオファイトに参戦する。1回戦ではキム・デウォンを打撃で圧倒し、KO勝利。同日に行なわれた2回戦でも奥田は1RKO勝ちを収め、格の違いを見せつけた。12月の決勝大会でも、準決勝で現スピリットMCのミドル級王者イム・ジェソクをヒザ十字固めであっさり撃破。決勝戦でもホン・ジュピョ(後にパンクラスに参戦)を圧倒した。だが、やはり韓国は日本人にとって敵地だった。マウント状態や奥田がチョークをしかけているのに、レフェリーはブレイクを命じ、何度も勝機を奪われた。ペースを乱した奥田が2Rにパウンドを浴びて鼻血が出ると、試合はすぐにストップされ、TKO負けが宣告されてしまった。被害者であるはずの奥田は言い訳や抗議もせず、静かにリングを降りた。あまりにも韓国人選手に肩入れする主催者の対応に観客はブーイングを飛ばし、奥田を大いに称えた。
だが、この後も奥田は理不尽な仕打ちを受け続けた。04年9月に参戦したスピリットMCの無差別級トーナメントでは、奥田の対戦相手イム・ジュンスが試合中に足を痛めると、レフェリーはタイムを取ってイムに回復する時間を与えた。不可解なのはレフェリングだけではなかった。30キロ以上も重い相手に、奥田は試合を有利に進めたが、判定でも1-2のスプリットで負けを宣告されている。僕が奥田に出会ったのは、この試合の一週間後だった。
■秋山成勲と奥田正勝
僕は同じ日本人として、ネオファイトやスピリットMCの贔屓判定やレフェリングに激しい怒りを覚えていた。奥田本人に「悔しくないのか」「不満はないのか」という質問をぶつけたが、彼は不満を口にするどころか、こちらが拍子抜けするほど平穏な表情で、「自分が弱いから負けた」とだけ答えた。そのあまりにも浮世離れした佇まいに、「こんな男がいるのか」と衝撃を受けた。KTTの男たちが男惚れするはずである。一度会っただけで、すっかり僕は彼のファンになっていた。そんな奥田の魅力は、韓国の格闘技ファンにも伝わっており、韓国の格闘技大会では、いつも野太い「奥田コール」が鳴り響いていた。それはナショナリズムの強い韓国において非常に珍しい光景であった。
日本では無名に近い奥田が、05年11月の『HERO’S』韓国大会のメインで、秋山成勲の相手に抜擢されたのも韓国での人気が評価されたからだった。この試合で秋山成勲は強烈なパウンドで奥田にKO勝ちし、韓国での人気を確固たるものにするのだが、韓国の格闘技記者たちは日本人の奥田を応援する者が多かった。それは、韓国への愛国心を表明しつつも日本語で通す秋山に対し、理不尽な仕打ちを受けながらも韓国への愛情を失なわず、流暢な韓国語で話す奥田を見ていたからである。だが、そんな裏舞台を知らない韓国の一般視聴者は秋山成勲の「大韓民国最高!」という言葉に熱狂し、奥田には一瞥もくれなかった。その後、ケガもあり奥田はしばらくの間、試合から遠ざかった。
■奥田の驚くべき決断
そんな中、奥田と親しいある人物から連絡があった。その内容は「奥田が最近おかしい。どうやら宗教にかぶれているようだ」というものだった。驚くことに、すでに奥田は格闘技を辞める覚悟までしているという。にわかには信じがたい話だったが、すぐに僕は説得するためにソウルへと向かった。真武館韓国本部の関係者や奥田選手と親交のある人物とともに僕は奥田と対面した。長いあいだ話をしたが、すでに彼は覚悟を決めていたのだろう。寡黙な奥田が話の中で明かしたのは、以下のようなものだった。
「肉体を鍛え、技術を高めれば人は本当に強くなるのか。本当に強くなればリングで闘う必要はないのではないか」
まるでガンジーの非暴力主義、或いはイエス・キリストの博愛主義のような言葉だった。そして、実際に奥田は周囲の強い反対の中、07年2月の試合を最後に、格闘技界から姿を消した。奥田は自らが開設した真武館空手韓国支部の師範代も辞め、ある女性と結婚してソウル市内の大学で宗教関係者になるための勉強をしているという。「奥田は狂ってしまった」。そう話す関係者を何人も見た。彼を宗教に誘った者、或いは奥田自身を愚かだと批判する声も耳にした。
けれども僕には、どうしても彼が盲目的に宗教に熱狂し、自己を見失ったとは思えなかった。それは、これまでに通常の人間なら我を忘れて激怒しそうな仕打ちを受けても、まるで心を乱さなかった奥田正勝という男を実際に目撃していたからだ。彼は「人間が闘う場所はリングだけではない。リングで闘うことをやめるからと言って、強くなることをやめるわけではない」とも言っていた。
奥田の真意がどこにあるのかはわからない。ただ、強さの意味を真摯に問い続け、その強さを深く求めた結果、彼はリングで闘うことに以上の意味を見つけ出したのではないだろうか。彼の言葉を信じるとすれば、奥田正勝という男はまだ闘い続けているのだろうし、自分の闘うべき新たなステージを見つけて、いまも自分を磨き続けているに違いない。第三者の勝手な思いだが、そうであってほしいと思う。少なくとも僕の知る奥田正勝は、試合がないからと言って訓練を怠るような人間ではなく、常に強くなることを志す武道家だった。
リング上で闘うことの意味も、リングを降りる理由も、人それぞれだ。もう二度と奥田はリングに上がらないかもしれない。もちろん奥田本人は大マジメに違いないが、プロ格闘家の最期としては突拍子もないものであることも事実だ。どのような印象を抱くかは人それぞれだが、どうあれ僕は最後までどこか浮世離れした光を放っていた格闘家・奥田正勝をずっと忘れないでいるだろう。
「スコット・コーカーは韓国系アメリカ人」というネタを見つけた『MFIGHT』。今度はアメリカMMA界の有名マネージャーであるケン・パビアに話を聞いて、韓国人がストライクフォースに出場できるか聞いている。
※※※※※以下MFIGHTから引用※※※※※※
――まずは自己紹介をお願いします。
パビア 私は“MMAエージェント”という総合格闘技エージェンシーを運営しているケン・パビアという。この業界で仕事をする以前は、長いあいだベースボールやアイスホッケーなどの選手のマネージメントをしていたので、プロスポーツのベテランエージェントと言えるだろう。MMAエージェントには50人以上のファイターが登録されていて、我々は彼らに最もよい機会を与えるために最善を尽くしている。
――現在、韓国では格闘技のマネージャーを扱ったドラマが放映されている。実際に格闘技家のマネージャーとしての日常とはどういったものか?
パビア 2008年には8つの国の35の都市で開催されたイベントに選手を送り込んだ。今年はすでに昨年のその数字を超えている。他のスポーツと違って、MMAでは外国での試合も多いし、世界のあらゆる場所で人に会わなければならない。だが、選手たちの夢が叶って、世界的にこのスポーツのマーケットが拡大していくのを見ると嬉しくなるし、この仕事をやっていてよかったと思うね。ただ、選手がリングに上がるまでに言葉では言い尽くせない努力が必要となる。
――マネージメントをしてきて、最も記憶に残る試合や選手はなんですか?
パビア それは難しいよ。親が何人もいる子どもの中で誰が一番かわいいかを聞くようなものだ(笑)。そんな中でも、とても印象的だった試合はいくつかあるがね。
たとえば、『UFN9』でジャスティン・マッコーリーがアントニー・ハードンクに勝った試合だ。私は長いあいだ、ジャスティンがティト・オーティスやリコ・ロドリゲスのスパーリングパートナーをしてきていたのを見ていたからね。ジャスティンとはずっと『いつかはチャンスをつかむ日がくる』と話してきたからね。あの試合で、彼はずっと願っていたチャンスをついに手にしたし、ずっと彼のそばで見守ってきた自分も本当に涙が出るほど嬉しかったんだ。それ以外では、フィル・バローニがPRIDEで何度もKO勝ちしたときのことはよく覚えているね。最近では、ブレット・ロジャースがアルロフスキーをKOさせた試合が印象深かった。
――近い将来、韓国人選手がUFCやアメリカのMMAイベントで多く観られるでしょうか?
パビア もうキム・ドンヒョン、デニス・カーン、アキヤマらがいい活躍を見せているじゃないか。すでに彼らはアメリカでも優れた技術を持った選手として注目されている。彼らがこれからもいい結果を残せば、またストライクフォースやベラトールFCといった団体でも、韓国人ファイターがいい結果も出せると思う。韓国人選手との契約や韓国マーケットへの進出は、とてもエキサイティングなことだよ。多くの韓国人ファイターが世界のさまざまな舞台に進出できるように努力しているよ。
――契約する選手は誰がいますか?
パビア マルティン・カンプマン、アンソニー・ジョンソン、フィル・バローニ、プレット・ロジャース、ジェームズ・トンプソン、ザビエル・フォウパ・ポカム、ジョナサン・グーレーといった選手がいるよ。
――ストライクフォースのCEOスコット・コーカーは韓国系アメリカ人だが、韓国の選手がストライクフォースに進出するチャンスはありますか?
パビア スコットとは韓国人ファイターの招聘だけでなく、チャンスがあれば韓国でも大会を開催したいという話をしたこともある。もちろん、実現させるためには韓国から大きな助けが必要だが、努力しているところだよ。スコットについては、彼の母が韓国人で、彼自身も韓国で生まれてしばらくのあいだ住んでいたと聞いている。また韓国系であるという事実を誇りにしているようだ。
――では、次のキーワードに短くコメントしてください。ヒョードルについてどう思うか?
パビア MMAが誕生してから登場した選手の中で、最高のファイターだね。
――ダナ・ホワイトは?
パビア 自信溢れるパイオニア。
――ティト・オーティス。
パビア 自分自身のマーケティングを徹底する選手。興行保証の小切手。
――秋山成勲。
パビア 才能があって成功を手にした選手。
――UFC。
パビア ほとんどのファイターの目標となる舞台。
――韓国のMMAファンに一言。
パビア 韓国マーケットに進出するチャンスが近づいていることは喜ばしいことだ。韓国には潜在的に多くのファンや選手がいることはわかっている。早く韓国人選手がアメリカや海外に進出する姿が見られればいいと思う。
※※※※※引用終わり※※※※※※
せっかくMMA界有数のエージェントに話を聞いているのに、インタビューの目的は同族である(と韓国人側がみなす)コーカーのコネが期待できるかどうかといったものなのが残念。結局、パビアからも薄っぺらなリップサービスしか聞き出せていない。どうせならコーカー本人に聞けばいいのに。徹底して“血”にこだわってスポーツを見る韓国らしさが出ているとも言えるが、韓国人が海外で活躍できるかどうかは、コネではなく実力である点に早く気付いてほしい。
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