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東海近辺のライフログ。
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リチャード・ギア、イーサン・ホーク、ドン・チードル共演のクライムサスペンス映画。

今年3月上旬に観た映画を思い出しながらレビュー。

今まで観たリチャード・ギアの映画って正直ヌルい役と作品が多かったので、大して期待せずに観たのだが、これはなかなかの佳作だった。

役どころはリチャード・ギアは定年直前の事なかれ主義の警察官、イーサン・ホークは悪事に手を染める汚職警官、ドン・チードルはクールにふるまうもヤバい橋を渡る潜伏刑事役といった構成。クライマックスへと向かうまでに意外な汚れ役のリチャード・ギアは最後に少しの勇気を見せ、やっぱり格好いいイーサン・ホークは病んだ精神状態で破滅への道を突き進み、ドン・チードルは緊張感のある演技を見せる。

警察官という役割に焦点をあてた映画だが、絵にかいたような正義を表現しておらず、警察官が陥りやすい誘惑と危険のリアリズムを追及している。映画を観終わると、悪事が目の前に行われていても、見て見ぬふりをするのが警官として生き残る最良の道だという結論を持ちかねないが、おそらくそんなところがメッセージなわけはないはず。

ポッと出がギャングの中心人物に収まるというドン・チードルの役どころに多少の無理はあったが、演技力でそれをカバーしていて作品として単純に楽しめた。アメリカ社会のダークな面を堪能できる。
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ほぼ飯田橋ギンレイで観てきた映画のメモ的な感じになるはずのこのコーナー。基本的にネタばれあり、あらすじカットの自分メモ的な扱いで更新する予定。

昨日観た一本目は『127時間』(2010年米国)。

トレイラーはこちら。


邦画にはよく舞台演劇から映画化された作品がけっこうある。そういった作品には場面転換の必要のない密室での物語、登場人物の少なさといった特徴があるものだが、この『127時間』は、所謂密室芸を究極にまで推し進めた作品といえる。
 

なにせ、映画に登場する人物は一人しかいない。必要なのは大自然とその中に閉じ込められた主人公アーロンだけ。ただ、たったそれだけ環境でも非常に緊張感があり、追いつめられた人間がどのように感情を変化させていくのか、自暴自棄と後悔、生きるために取らざる得ない激痛を伴う決断……。


この作品は、人間の実生活では抽象化されているはずの問題群を顕在化したメッセージ性の強い内容になっている。ただ、やはり“激痛”を喚起させるシーンで、好き嫌いは分かれる。見続けていくと少しずつ慣れてくるのだが、クライマックスでは正視に耐えかねる場面も出てくる。しかし、個人的にはその“激痛”こそがこの映画の肝だと思う。


実話に基づいた話だというが、観る者に訴えかけるのは「あなたはいつ死んでもいいように、後悔なく生きているのか?」というシンプルなメッセージだ。大事であることは重々承知しつつも、つい家族や大切な人を疎かにしたり、面倒な問題を先送りすることは、どんな人にでもあることだ。


けれども、そんな小さなことを積み重ねていくと、いつか強烈なしっぺ返しが訪れる。それが“転落”であり、はまり込んだ泥沼からは“激痛”ともなう決断が必要で、生命にも等しい“代償”を支払い“帰還”しなければならない。


主役のジェームス・フランコは90分ほどのあいだ、出ずっぱりで極限の感情を炸裂させる好演を披露している。飽きずに映画が見られたのは彼の力が大きかった。なかなかの力作だった。

2本目は『ザ・ファイター』(2010年米国)。

予告編はこちら

現代版『ロッキー』シリーズの家族愛編といった内容。

主役は将来有望な片田舎のボクサー。しかし、彼の周囲には問題のある人間がわんさかいた。過去の栄光にしがみつき、現在はヤク中毒の兄貴、自分の主観を押しつけるだけの母親、傍でギャーギャーと無責任で排他的な罵詈雑言を投げつける七人姉妹、そういう家族を見下して切り捨てようとする主人公の彼女など……。まともなのは、いつも弟のことを心から理解しようとする立場の弱い親父ぐらいのもの。
 

最後には対立していた主人公の彼女と主人公の家族が和解・協力して主人公は世界王者になるという物語なのだが、実話に基づいているからなのか、脇が甘い脚本だったのがやや残念。最終的に全員が和解してハッピーエンドに向かうのはいい。地に落ちたかつての英雄(兄貴)の名誉回復と家族との和解は見られたが、変わったのはヤク中の兄貴だけ。


あんなに醜かった母親は何も変わっていないし、7人姉妹も同様。兄貴に歩み寄られた分、主人公の彼女はそれを受け入れはしたが、さほど劇的な変化でもなかった。そういう意味では物語が家族愛をテーマとしているのに、ドラマチックな展開がなかったという意味で、やや肩透かし。


ただ、肝心のボクシングシーンはなかなかの迫力で、主人公役を演じたマーク・ウォールバーグはリアリティのある演技をしっかり披露。そのことが作品に重みを加えている。実際にウォールバーグは自分が映画に出演してもらったギャラよりも50万ドルも多い額をトレーナーに支払ったとか。


シナリオがもう少しよければ、なかなかの名作になるのになあ。インファイターとして歴史に名を残すアルツロ・ガッティ(UFC社長のダナ・ホワイトも大好き)と死闘を繰り広げたミッキー・ウォードの成り上がるまでの半生だからこそ、丁寧に描いてほしかった気もする。



映画『トロッコ』(2009年日本)を観てきた。
例によって飯田橋ギンレイシアターにて。

この作品、芥川龍之介の短編小説『トロッコ』を題材に、舞台を台湾に移して大胆な脚色を加えた日本映画なのだが、作品に雑然としたさまざまなテーマが混在していて全体的に何を訴えたいのか分かりづらい映画ではある。

それが散漫だという人もいるだろうし、実際に色んな視点が混在した作品となっている。自分の仕事が忙しく、家事育児に愛情を持てない日本人妻(台湾人の夫は病死)が家族とどう向き合うべきか苦しむ視点、母によくかわいがられる弟に対し、いつも母を困らせる問題児として忌み嫌われる長男の、母との和解物語という視点、そして日本人になることを望みながら、終戦後に日本から捨てられたことにわだかまりを持ち続ける台湾人のおじいちゃんという視点、そこに芥川の原作『トロッコ』が持つ普遍的なメッセージ性が絡んでくる。

さらには製作陣側から感じられる戦前の植民地政策への無反省な押し付け(とくに台詞面に顕著)など、いろんなテーマをごちゃまぜにしているところがこの作品の面白さでもあり、批判されるポイントになっていると思う。

とはいえ、個人的にはそういう賛否両論など、まったくどうでもいい。そんなことどうでもいいんだよ! 30代になって自分も涙もろくなったと思ってはいたが、映画館でこんなに泣いたのも初めてだったし、人前でこんなに嗚咽を抑えるのに苦しんだ経験も初めてだった。

ただ、作品を観て泣けたということを考えると、自分の中にも製作陣が意図したような押しつけがましい無反省な歴史観があったのかもしれない。日本を懐かしむ台湾のおじいちゃんたちがいることを好ましく、また嬉しく思っているということは、自分もまた歴史を都合のいいようにとらえようとしているのかもしれない。だとしたら、それは台湾人のおじいちゃんたちが、戦後数十年も経っているのに、日本に対する愛を吐露する姿を実際に見たことがあるのと無関係ではないと思う。

けれども、自分が映画を観て悲しいと思ったのは、そういう歴史観うんぬんの部分を刺激されたというよりも、ただ洪流の演技にやられてしまったのだと思う。彼の演技は何かを“演じる”というレベルを超えてそれ“そのもの”であるように見えた。心からの憤懣を吐露した後、涙ながらに見開いた眼、震えの止まらない箸づかい、また自分の最大の願いですらあっさりと突き返す痛いほどのやさしさ、そして娘たちを見送った後の後ろ姿。

最高の円熟味を堪能させてもらった。自分も何かを突き詰めるなら、この境地にまでたどり着きたいと思った。自分にとって映画の出来は二の次だな。

■『オカンの嫁入り』(2010年日本)

ギンレイシネマの会員なので、遅れてロードショーやってる映画が格安で見られるんだよね。年会費払ってるから毎回タダで見てる。もうDVDで発売される直前に上映してるところがギンレイだよなあ。

で、本当は別に見なくてもいい映画なんだが、仕事が早く終わったので見てきた。

まー、タイトルとか予告編でだいたいの内容を予想できるというか、安っぽいストーリーなんだよねえ。30分ぐらいの短編映画とかでいいんじゃないだろうか。パンフレットとかのあらすじとか何を書いてんだろうね。ちょっとでも書いちゃったら内容全部分かるじゃん。スッカスカだし。

シナリオが単調なので、変化のない宮崎あおいの大根演技を観るのもつらかった。葉桐谷健太はよかったけど。

単純に好みの問題だろうけど、もっと気骨のある映画が見たいんだよな。


■『トイレット』(2010年製作日本)を観てきた。

まあ、観ての感想は「舞台をカナダにしようと、演技者のほとんどが外国人であろうと、結局は完全な日本映画だな」ってこと。良くも悪くも空間芸術なんだよなー。「みなまで言うな行間を読み取れ」って感じの。

それが悪いわけではない。日本映画らしいと言えばそうだし、ちゃんと色々な皮肉や矛盾、製作者や作者の投げかけるヒントは感じられるし、それをどう解釈するかの幅を持たせた作りになっているとは思う。

ただ、その“緩い感じ”を日本映画独特の“アーティスティックさ”と感じるか“退屈さ”と感じるかは人それぞれ。自分は正直言って退屈さを途中で感じたし、「考え込めば見つけ出せるかもしれない壮大なメッセージ性」を考えてみようとしたが、そんなに大層なメッセージがあるとも思えなかったし、考えるのが馬鹿らしかった。

かといってつまらなかったわけでもないが、ネタをふっておいて最後まで描き切れていないと感じたし、もっと表現したいことをコンパクトにまとめられただろうと思った。キャラも生かし切れていないし、メリハリがなさすぎた。

私小説のような映画でもいいんだけど、エンターテインメントとして上を観る必要はあるんじゃないの? 
極悪レミー』見てきた。



メタル/ハードロックファンなら誰が観ても満足できる作品。
実際、シアターN渋谷にはレイトショーなのに人は満杯だった。しかもバイカー率高し(笑)。あんなにガラの悪い映画館って経験したことなかったけど、いかつい男もパツキンでメイクガチガチのねーちゃんも、普段なら自分とは程遠い存在だなって思うんだろうけど、あそこにいた人間は全員がレミーで繋がってるからか、映画が終わってエンドロールが終了したら自然と会場から拍手が発生。なんともアットホームな感じだったし、仲間といる感じもした。

映画はレミーの生活に密着しながら、彼の歩んできた道のりを追っていくことによって、ハードロックとメタルの歴史の重要な一端を明かされる演出になっているんだけど、レミーの正確に迫れば迫るほど、彼の本当の人格というものが分かりにくくなる。

映画の最後のほうでも身内が指摘してるけど、彼には本当の感情が見えにくい。音楽から来るイメージとしては、頑固おやじでとっつきにくそうなんだけど、実際のレミーはファンにはいつもやさしくて笑顔ばっかり。かと思うと、暇なときはジャックダニエルズ&コークをやりながら単調なゲームを朝から晩までやってる無感情な男で感情の起伏はほとんどない。

幼少期のトラウマとか、ドラッグのせいだとか、自らロッカーを演じてるとか、いろいろ解説はできるんだろうけど、とにかく不思議なたたずまいで、彼のやってる音楽性と同様に非常に特異な立ち位置を維持してる気がした。

映画見てると、刺激性の強い音楽シーンにおけるモーターヘッドって、とにかくみんなから好かれる存在なのがよくわかる。パンクのヤツらも、メタルキッズも、スラッシュ命なバカも、ハードコアなヤツも、みんなモーターヘッドが大好き。彼らの音楽に対してリスペクトしてるし、レミーは最高だって思ってる。

ある分野のパイオニアであり、その中心であり続ける人間っていうのは、やっぱり「オレにはそれしかとりえがない」「これさえやってれればハッピー」っていうシンプルな人間にしか勤まらないんだろうね。好きなことのためには幸せな家庭生活を犠牲するのは、一人の男としては寂しいけど、“ロック界の大御所レミー”としては、音楽そのもので人々を幸せにさせられる。

最後まで見終わると、グダグダ口では語らない男の哀愁と皮肉がほのかに漂ってたのが印象に残った。
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