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今日は知人のキックボクシングの試合を観戦してきた。
3分3ラウンドの試合で、彼はほとんど打撃を受けず、効果的な打撃を出しながら試合をコントロールしていた。対戦相手は彼のスピードについていけてなかったし、有効打は作れなかった。マスト判定であれば知人が3-0で完勝していたはずだ。
けれども結果はドロー。自分も知人に感情移入をして観ていたので釈然としなかったが、ジャッジは僅差か、ほとんど差がないと見做したのだ。三者ともそう見ていたということは、なんらかの意味をはらんだ“事実”として受け入れなければならない。
人間がとてつもない努力をしたとしても、必ずしも自分の望む形で、望む瞬間に、あるいは目に見える形で報われるとは限らない。個人的には努力した結果が、完全な徒労として終わることはないと信じているが、一見して“失敗”の形で現れることは少なくはない。
自分がいま従事している仕事でも同じだ。努力はしている。けれども自分の望む結果で表れてこない……。そんな経験はずっとしている。受け入れがたい結果を目にして、そこから何を学ぶのか。人生においてこれは重要な問題だ。
何かの啓示なのだろうかと思案することもあるし、事が決した後で、自分の中にどのような変化を加えるべきなのか、などと考えることも少なくない。格闘技に限らず、目に見える形で“本番”があるものは、そうした結果と向き合いやすい。それは自分がした努力に対する“結果”を多くの第三者が共有するからだ。
けれども、一般的な会社員や学生が努力した末に出る“結果”も、“第三者”が共有していなくても舞台表現者たちと似たようなもののはずだ。そこには一瞬ですべてを問われるか(目に見える形で表れるか)、日々の生活の中で少しずつ結果が出ているかの違いでしかない。
舞台芸術では“本番”の“結果”で、表現者たちが日常、どんな努力をしていたかが分かってしまう。本来は社会人でも舞台で勝負する者たちと同じように、日々の生活の中で自分たちの努力の結果が出ているはずなのだ。
気付かないうちに出ている自分の望まざる結果、つまり差し当たっての“失敗”とどう向き合って、どう自分に変化を与えていくか――。それを戒めとして自分に問い続けたいから、自分はオペラや格闘技といった舞台芸術を好んで観る。日常の自分の生活と努力レベルに“喝”を入れるために。
黒人霊歌は魂を解放する心の叫び。
もちろん、黒人霊歌の中には悲痛で重いものもあるけど、底抜けに明るいものも多い。
そこには笑いや歓びで悩みや苦しみを吹き飛ばしてやろうという痛快なイキオイがある。
音「楽」とはよく言ったもので、
いい音楽は聴いていて自然と体が動くぐらい楽しい。
そして楽しい音に触れているときは、心配や不安は一瞬にして吹き飛ぶ。
リラックスできる音楽を聴く前と後とでは、精神状態も違うように感じる。
きっと気のせいじゃない。
科学的に調べればいろいろ説明できるはずだ。
寝たきりの人の前でプロの歌手が歌ったら、
突然、病人が立ち上がって喜んだという話もある。
それだけ音楽が持っている力は素晴らしい。
この曲はyoutubeよりも、簡易に字幕などを書き込めるニコ動で
観るほうが絶対に楽しい。
スウィングジャズの軽快なリズムに乗って、ルイ・アームストロングと
ダニー・ケイが軽口をたたきながら、名曲を自由気ままにアレンジしている。
後半のスキャットの掛け合いも素晴らしい。
何より心から音を楽しんでいる姿勢に、つい笑顔が出てしまう。
元気、もらいました~
心配事があって、よく眠れない日が何日か続いたんだが、押し入れの奥にしまってあった本を取り出してざっと眺めてみた。こんな本の発想をよく考えたものだ。これで少しはよく眠られるかもしれない。
【あらすじ】
1970年代のフィンランドの片田舎を舞台に、人を寄せ付けない元囚人と悩める人々を癒やす盲目の牧師との繊細な交流を描き、各国の映画祭で称賛された感動的な人間ドラマ。刑務所を出所したヒロインが牧師のために手紙を音読する日々と、二人の心に宿る絶望と希望とを淡々とつづっていく。監督は、フィンランドとスウェーデンで活躍するクラウス・ハロ。
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前回観たのが『ジュリエットからの手紙』だったが、今回は『ヤコブへの手紙』というタイトルのフィンランド映画。愛する飯田橋ギンレイにて観賞。以下、その感想。
頑なに心を閉ざした元終身刑のレイラがいかにして心を開き、人間性を取り戻していくかが、この映画のテーマ。最初は牧師のもとに届く手紙の内容と、ありきたりに思える牧師の祈りの言葉は、レイラにはまったく届かない。そればかりか手紙の存在を全否定し、恩赦を願い出た牧師を偽善者扱いする。
けれども、手紙が届かなくなってみるみる衰弱し、「自分は神にも必要とされなくなった」「誰かを守っているつもりだったが、実は手紙が私自身を守ってくれていた」と絶望する牧師を見て、彼女の心が次第に揺さぶられる。
善良な牧師でさえ、神から見放されたのを見て絶望したからか、牧師の願い出を拒否し、家を出ていくことを決心するレイラ。しかし、元終身刑のレイラに行くあてなどあるはずもなく、牧師館で自殺を図る。そんな中、自宅に戻ってきた牧師の「いてくれてありがとう」という牧師の一言で、レイラは人間性を取り戻していく。
最後のレイラの告白は涙なしには観れないし、牧師から初めて手渡された姉からの祈りの手紙を読むシーンは忘れられない。あれほど不遜で無愛想だったレイラが、つい可愛く見えてしまったほど(笑)。
初めて観たフィンランド映画だったのだが、内容はわずか75分、出演者はほぼ2人だけという簡素な作りで、台詞も少なく、大げさな笑いも涙もなく、特別な仕掛けもない。それなのに、じんわりと心の奥が温かくなって涙が止まらなくなる、いい映画だった。
荒涼として底冷えするような北欧が舞台であるためか、人の温かみがしみじみ感じられ、自分を必要としてくれる者、自分を心から理解してくれる者がいるだけで、人は生きられるというメッセージがすんなり入ってきた。
西ヶ原といえば旧古河庭園。レトロな洋館と西洋式(イギリス式とフランス式をミックス)庭園が見どころ。純和式庭園の六義園(いつか別項で紹介する)もいいけど、こちらでは大正モダンの味わいが楽しめる。そして旧古河庭園に寄ったら、和菓子平塚亭つるおかに行くのがお勧め。和菓子が好きではない俺も甘すぎない焼き団子が気に入ってる。
王子はあの王子製紙があったことで有名だけど、いまでは国立印刷局王子工場が王寺駅近くにある。ここはいわゆる造幣局の機関の一部で、いまもお札や切手、パスポート、官報などを印刷してるとか(だから飛鳥山公園には紙の博物館がある)。この日はその造幣局の隣を素通りして、上には首都高速環状線、下には石神井川が流れる場所でパチリ。
石神井川を南に下って、都電荒川線の栄町近辺をウロウロ。この辺りはまた古い建物がチラホラ残ってて面白い。とくにこの駄菓子屋は年季が入ってた!
ガチャガチャとか懐かしいねえ。写真撮った時には閉ってたけど、後で通ったらちゃんと営業してたよ。古い建物に見えるけど、東京大空襲では王子駅前や近隣が焼け野原になったというから、この建物も昭和のものなんだろうね。
帰りは目白通りを南に下って、田端~旧白山通り~本郷通りを北上し、猫公園を経由して帰宅。楽しかったな。
最近では猫に餌をやるのはご法度とかで、よく禁止されている。責任持って世話しないというから、とか地域住民に迷惑とか色んな理由があるんだろうけど、それを聞くと世知辛い世の中だよなと思う。たんに自分が猫と戯れる場所が制限されるからだけではなく、1億総潔癖症化している感じで腑に落ちない。
もちろん、この公園にも張り紙がしてあったから、なんらかの禁止事項はあるのかもしれないが、エサを持参する人たちがまだ居るということは、この地域には優しい方が多いのだと思う。そういう人情が感じられるのが巣鴨・駒込という街であり、また自分がこの地域を愛する理由もそこにあると思っている。
週末出かけるときは、できるだけこの公園に寄るようにしている。天気が良ければ多い時で6匹ぐらいに会える。この日は4匹だった。すり寄ってくる子もいれば、警戒している子もいるけど、みんな総じて人に慣れているので、運が良かったら触らせてくれる。
この公園で俺的アイドルなのはこのハイイロ(左)。こいつ触らせてくれます。美猫さんですよね。この日はいなかったけど、いつも居るイメージ。
今回の新人はこの子猫。何にでも興味津津でいっぱい遊んでくれた。
楽しかったな。また行こう。
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